2013年01月09日
機動隊について (読書)
年末年始はおさらいを兼ねて、「突入せよ!あさま山荘」の原作となった「連合赤軍「あさま山荘」事件」の著者で元・警察キャリアとして「警備畑」を歩んだ佐々淳行氏や、元警視庁警察官の原田弘氏の著作を読みふける。
どちらの著者も昭和20年代に警察官を拝命し、片や警察キャリアとしての指揮官の目線で過激化する学生運動の警備実施を振り返り、片や生粋の現場警察官として連続企業爆破事件ではパトカー勤務員として臨場。爆弾に吹き飛ばされ負傷――と、どちらの著者も「ひとりの警察官として見た昭和」をテーマとしているが、この両者の著作を読み較べた時のコントラストは非常に興味深い。
そして、「戦後警察の装備史」の視点から書物を読み返してみると、端々に興味深い記述が見つかる。
戦後日本警察の装備品に限定しても、内務省時代から引き継いだブローニングやコルトなどのけん銃。戦後のM1917、ガバメントをはじめとする米軍けん銃の貸与をはじめ、ジープやウェーポンキャリアなどの車輛や無線機。「チノパン、チノシャツ」やバックルブーツなどの米軍個人装備。さらには平成期に入ってからも使われ続けた旧軍の90式鉄帽や「亀の子防弾チョッキ」などの防弾装備や、機動隊の防石ネットとして使われた旧軍戦闘機の偽装網などの旧日本軍装備――と、内務省、米軍、日本軍の装備が入り混じり、これらをベースに独自に進化を遂げたものが戦後日本警察の装備と言え、このなかでも機動隊という存在が非常に独特な装備や、歴史・文化を持っている。
※ 「旧型装備」に身を包む機動隊員。この装備は過去半世紀にわたって使用され、現在も新型と並行して使用されている
現在の機動隊員の姿は2002年のワールドカップサッカー大会警備を機に導入された軽量化された新型防護装備である黒色の通称「ガッチャマン」に更新されつつあるが、戦後の学生運動隆盛期から21世紀の現在まで使われている、「機動隊」と聞いて多くの人が真っ先に連想するであろう「紺色の機動隊員」が身に着ける防護装備の構成品は頭部を保護し、頸椎ガードの取り付けられた「防石面付きヘルメット」、「ゲバ棒」の打撃から胴体を守る「防護衣」、股間を防護する「垂れ」、大盾からはみ出す脛を守る「脛当」、そして腕を守る「籠手」などから構成されているが、「防石面付きヘルメット」をはじめとした籠手や垂れなどの防護装備は戦国時代の兜を連想させ、手に持つ「大盾」のイメージとともに、機動隊のとる戦術も中世ヨーロッパの「ファランクス」や戦国時代の足軽を連想させる。(※装備品の名称は便宜上の名称)
※ 機動隊防護装備の新旧比較
※ 千葉県警年頭視閲で大盾操法の展示を行う成田空港警備隊
そして、小隊長以上の指揮官は旧軍の指揮刀にルーツを持つ階級ごとに色分けされた房付きの「指揮棒」を持ち、首に巻く白い「防炎マフラー」は、ときの警視総監が旧軍の零戦搭乗員のマフラーをヒントに導入が決まったといい、伝令は自隊の位置を表示する「提灯」を掲げるなど、旧日本軍の影響や、岡っ引き?の影響なども端々に見受けられる。
※ 全共闘の揺籃の地である日大の封鎖解除に出動した警視庁機動隊
とくに佐々淳行氏の著作――とくに「東大落城」(文春文庫 1996)のなかでは、過激化する学生運動とそれに対する警視庁機動隊のまさに血みどろの「警察戦国時代」が描かれるが、そのなかで、警備資器材の改善や導入などの紆余曲折に言及した部分も多い。たとえば当時の出動服、通称「乱闘服」は化繊生地で出来ていて、石から火炎瓶に学園紛争が過激化するなかで、化繊の出動服は燃えると熱で溶けて身体にへばりつき機動隊員の火傷が重症化する傾向にあったといい、ときの佐藤栄作総理大臣を機動隊の隊舎に連れてゆき、政治主導の「ウルトラC」で「防炎出動服を導入させた」というエピソードも披露されている。
※ 神保町書泉グランデ前で対峙するデモ隊と機動隊
以下、「東大落城」より抜粋。
どうしたら双方の怪我人を少なくして検挙数を増やせるか、私は知恵を絞る日々だった。(中略)
そこで思いついたのが「逃げると追ってくる」という勝利者の心理を逆用する伏兵戦法だった。
正面の部隊がわざと負けて逃げるふりをして、勝ち誇って追撃してくるゲバ学生たちを、
あらかじめ伏兵が待ち伏せしている地点に誘い込む。
携帯無線の通信で連絡し合い、ころあいをみてドッと側面から挟撃する。
同時に退却していた部隊が反転して浮足立った一番先頭の最も悪質な集団
を包囲し、一網打尽にするという作戦がその一つである。
二代将軍の凡将・徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子の守る上田城攻めで、この手に引っかかって大敗し、関ヶ原の合戦参着が遅れて家康にひどく叱られている。
(中略)
私は警備新戦術研究会で隊長たちを集め、この戦法を披露し、「以後この作戦を『俎(まないた)作戦』と呼称する」と宣言した。
(中略)
あわせて各機動隊に対して退却に際しては、命令一下いっせいに大盾を背中にひっかついで逃げる「亀の甲」態勢をとるよう、訓練を下命した。当時、連日の警備で多くの負傷隊員が出た訳だが、彼らの負傷部位をこまめに統計をとらせてみると、鎖骨、睾丸、小手に脛が多かったが、後退するときに追いすがられて角材、鉄パイプ、投石などにより頸椎と背骨をやられる「後ろ傷」も意外に馬鹿にならない数だった。しかもこれらの傷は後遺症を残す危険の高いことがわかった。そこで頸椎を保護する兜の錣(シコロ)状のプロテクターやアメリカン・フットボール用の睾丸プロテクターなどの装備化を急ぐと同時に、部隊行動として大盾を背負い背中をカバーしながら、組織的に「敵に後ろを見せて」退却する戦法を採用したのである。
(中略)
また「捨伏(すてがまり)」戦法という薩摩勢独特の退却戦術も導入した。
「ステガマリ?一体、何です、それは?」
と、隊長たちは怪訝な顔をする。私はだてに戦記物を読んでいるんじゃない。退却に際して催涙ガス分隊を三段列にわけて部隊後尾に折敷の姿勢で構えさせ、追いすがる暴徒に向けて第一列発射。すぐ走って逃げ、今度は第二列発射。第三列が発射する前にその後方に折敷いた第一列が装填を終えるという、追撃の先鋒を怯ませて本隊を逃がす戦法だ。
――と、機動隊の運用指揮を司る警備一課長だった佐々淳行氏は、相当な戦記マニアで、拳銃マニアであったそうだ。(佐々氏の著作を担当した編集長談)。「半分趣味」状態ともいえる戦国時代の戦技戦術の研究を行ったが、この背景には「70年安保」を控えて、過激化する学生運動で警視庁機動隊の負傷者が続出している事情があったという。
東大安田講堂の攻防戦にいたる全共闘の出発点となる日大闘争の警備実施だけで、紛争がはじまった昭和43年4月から45年6月までの約2年2ヶ月の間に「機動隊員のべ10万1691人がのべ277回出動し、殉職1名、重軽傷384名の損害を受け」たといい、この日大闘争をふくめた全体の警備実施では凄まじい数字が出ている。
「昭和四十三年中の警備実施回数・一千六十八回。検挙者数・五千百六十七名、負傷機動隊員数・四千三十三名。昭和四十四年は、東大安田講堂事件をふくめ、警備実施回数・二千八百六十四回、検挙者数・九千三百四十名、負傷隊員数・二千百九十五名」
という多くの負傷隊員を出しており、佐々氏はこの原因を「ゲバ棒と警棒の白兵戦」にあるとして、「放水の活用と催涙ガス弾の使用によるアウトレンジ戦法」へと警備戦術と装備を転換したという。そして、「戦後警察装備史」的な目線から見れば、この時期の警備実施の反省と教訓から機動隊員の被る「SB8型ヘルメット」の頸椎を守る「垂れ」が付けられ、機動隊のドクトリンともいえる「放水とガスと大盾」が確立されたといえ、高圧放水可能な放水車が整備され、数も少ない上に連日の警備で破損したジュラルミン製の大盾も増強された。「イギリスによる香港暴動鎮圧の教訓」から催涙ガスの使用が大々的に行なわれることとなり、昭和43年の新宿騒擾事件直後でさえ「警視庁に49挺2000発しかなかったガス銃」が増強されるきっかけとなったものが、この時期の警備実施であった――つまり、機動隊を象徴する「紺色の出動服姿の機動隊員」の姿が完成したのが、この昭和43年であったということが「東大落城」の文面から伺える。
しかし、そんな「警察戦国時代」には、機動隊員らは相当、「荒れていた」らしい。
※ 昭和38年(1963)当時の「白兵戦時代」の警備実施の様子。ヘルメットには「垂れ」がまだ取り付けられておらず、盾も旧型
※ 「ゲバ棒から火炎瓶へ」のデモ隊の戦術の変化で、機動隊の戦術も「白兵戦からアウトレンジ」へと変わって行った
ちょっとした騒ぎになった。
まず、「退却」というコンセプトを承知させるのが大変だった。古参の隊長、各級指揮官に拒否反応が起きたのである。
「伝統ある警視庁機動隊に向かって退却せよとは何事だ」「名誉ある頭号(一番の意)第一機動隊は『俎』だの、『総予備』だ、『退却』だなどという任務は絶対お断りだ」‥‥と隊長たちは気色ばむ。戦争体験を持つ旧軍の下士官兵出身者が多かったから、斃れて後已むという旧軍の用兵思想がまだ濃厚に残っていた。「敵に後ろを見せるは‥‥最後の一兵
まで一歩も下がらないというのが機動隊魂だ」などと、りきむのである。
また別の項では、
あの頃は下剋上の戦国時代。荒れた現場の指揮官たちは、卑怯未練な振る舞いがあったり不決断だったりすると、隊員たちから「しっかりしろっ!中隊長っ」などとどやしつけられたり、こづかれたりした。「下からの勤務評定」が厳しい時代だったが、それにしても今日、警視庁本部で機動隊長が上司のネクタイをつかんで怒鳴るなんていう光景は見られない。(中略)いまどきなら懲戒処分間違いなしの石川隊長の言動も「サブ、凄えなあ」ですんだ。
――戦国時代の戦術、戦法を研究し戦術化、防護装備も日本古来の鎧にヒントを得た機動隊。その精神は旧軍出身の元・下士官兵のベテランが精神と根性を注入し、警備計画の立案は「陸士出」をはじめとした元・旧軍将校が行ったという。実際の警備実施の現場では旧軍の「突撃に進め!」の号令に変わり、指揮官が指揮棒を振りおろし、「喚声前へ!」の号令とともに、数十名の機動隊員で投石、火炎瓶の雨の中を数千名の敵陣(デモ隊)めがけて突入。蛮勇を競うなど、まさに「男の花道」たる仕事だったという。
※ 神田神保町を埋め尽くすデモ隊
※ 「あさま山荘」後、凋落した新左翼運動は「三里塚」の成田空港反対闘争でさらに過激化してゆく
そうした戦術的、精神的なものをベースに、催涙ガスの使用などは英国の香港暴動の鎮圧からヒントを得た。さらに「汝殺スナカレ」という大前提のもと基本的に幹部以下はけん銃を携行せず、発砲もしない。警棒の使用も指揮官の命令という戦後日本的な「崇高な理念」のもと、「「忍耐」が美徳であると精神教育を施し、騒擾や暴動を「規制」し、「排除」し、「解散」させ、それでも従わないときは「生け捕り」にする――これが機動隊の基本原則」という、「日本の独創的な警察制度」であると佐々氏は語る。
異論反論は多々あるとはいえ、戦後日本の治安の現場で誇るべきことのひとつは、たとえ反体制派の騒乱であっても、一部例外を除いておなじ日本国民に銃口を向けなかったということは誇るべきことだろう。
「何を好んでそしりを受ける。損はやめろといわれても、信じているんだ太陽を、この世を花にするために、鬼にもなろうぜ機動隊」
学生からは「権力の走狗」と蔑まれ、学生寄りだった多くの市民からも白眼視されたという機動隊。趣味の世界でも自国の「警備警察」ということから、あまり語られることのなかった存在だが、その背景や取り巻くエピソードを調べると、これがなかなか面白く、戦後史的にも非常に興味深い存在だ。
――しかし、佐々淳行氏の著作の多くを読んでも、昭和40年代の高度経済成長に沸く日本のど真ん中で繰り返された連日連夜のデモ隊と機動隊の「戦争」は相当なものだったんだなと、改めて感じる次第。当時の機動隊員をはじめ、警察官の苦労を偲ぶ新春である。
Posted by アホ支群本部 at 07:00│Comments(4)
│雑記
この記事へのコメント
涙が出そうなブログです。
機動隊の装備が好きです。
無理かもしれませんが、
手投げガス弾、催涙ガス筒発射機1,2,3型についてガス弾ともに知りたいです。
機動隊の装備が好きです。
無理かもしれませんが、
手投げガス弾、催涙ガス筒発射機1,2,3型についてガス弾ともに知りたいです。
Posted by 光衛門 at 2013年05月11日 22:05
調べるほどに「政治の季節」に機動隊員たちが受け止めた暴風は相当なものだったのだなと痛感します。
「ガス筒」は資料不足の感は否めませんが、なんとか形にしてみたいもののひとつです。
「ガス筒」は資料不足の感は否めませんが、なんとか形にしてみたいもののひとつです。
Posted by 平和堂 at 2013年05月13日 21:58
いいブログだなあ(ノД`*)ノ
自分の父は、警察官でもと
成田空港の警備隊所属だったそうです。
おかげで父のアルバムには機動隊の装備
品の写真がわんさかありますww。
父にこのブログの存在を教えたら大変喜んでおりました。
今でも、あの当時、名もなき「ヘラクレス」たちが、最悪の条件下でも命をかけて戦ったことを知っている方がいて大変うれしいとのことです。
自分の父は、警察官でもと
成田空港の警備隊所属だったそうです。
おかげで父のアルバムには機動隊の装備
品の写真がわんさかありますww。
父にこのブログの存在を教えたら大変喜んでおりました。
今でも、あの当時、名もなき「ヘラクレス」たちが、最悪の条件下でも命をかけて戦ったことを知っている方がいて大変うれしいとのことです。
Posted by コンペ糖 at 2014年04月24日 23:33
機動隊を調べていて必ずぶつかるキーワードが「空警隊」です。全国出向者で構成され、現在も1000名を超える人員を抱える「機動隊類似部隊」は空港反対闘争で多くの実戦を経験。多くの損害も受けた警備部隊ですが、警視庁機動隊のように脚光を浴びることも少ないのですが、戦後史的な観点からもその存在はなかなか興味深い存在です。
お父さんが元空警隊員とは大変羨ましい!機会があればぜひとも当時のお話しをお伺いしてみたいものです。
お父さんが元空警隊員とは大変羨ましい!機会があればぜひとも当時のお話しをお伺いしてみたいものです。
Posted by 平和堂 at 2014年05月04日 22:30
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