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アホ支群本部
千葉県東葛郡市川町に大正年間に創業した「市川広小路 平和堂」。 創業以来、市川の地で国府台連隊をはじめ、軍部隊納めの商いを行うも市川空襲で焼夷弾の直撃を受け被災、廃業。 平成20年。半世紀余りの眠りから覚醒し、国防産業の「隙間のスキマ」を狙う「国防商会」として再始動。 部隊購入、隊員個人によるセミオーダー、PXメーカーに対する助言等、「かゆいところに手が届く」各種個人装備、被服、旧装備の復刻等を行っています。 詳細は「オーナーへメッセージ」よりご連絡下さい。
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Posted by ミリタリーブログ at

2012年12月11日

戦後警察けん銃について (資料編/群馬県警察史)

「終戦直後の群馬県警はモーゼルを使っていた!」と、超限定的に話題になっている群馬県警察史のコピーを頂いたので、メモ代わりに抜粋。


本県(群馬県)警察部の保管けん銃は、昭和二十一年二月六日の時点で五三丁であったが、翌二十二年二月には七銃種三一七丁と大幅に増加した。その理由については史料がなく詳細は不明であるが、警察官の個人所有三三丁が含まれていること、銃種が多種にわたっていること、三一七丁のうち二〇五丁が旧陸海軍が使用した一四年式けん銃であることなどから、警察官のけん銃携帯に備え、旧軍隊保管けん銃を警察用に保管転換したものと考えられる。警察部ではこれらのけん銃を各署に配分し、治安情況に応じて夜間警らなどの際に適宜携帯させた。

けん銃配分一覧図の「地区警察署」の項目では、昭和23年3月現在として、

(警察本部)

一四年式 一一丁
九四式 四丁
ブローニング 一丁
コルト 二丁
二六年式 二丁
その他 五丁

計五六丁

群馬県の政経中心であり、一線署であった、前橋、高崎の両署では、

(前橋市警察署)

一四年式 一二丁
九四式 二丁
モーゼル 一丁

計一五丁

(高崎市警察署)

一四年式 一〇丁
九四式 二丁
モーゼル 一丁
計一三丁

群馬県下の規模の大きな都市部の警察署を中心に昭和23年3月当時で「モーゼル」が1~2丁配置されており、本部保管分と合わせた場合、数の上で並び替えれば、

1 一四年式 214丁
2 モーゼル 38丁
3 二六年式 36丁
4 九四式 22丁


十四年式拳銃に次ぐ勢力が「モーゼル」であったことがわかる。当然、詳細な形式の記載はないためC96とその派生バージョンである証明はできないが、戦中に旧軍でも将校の「自弁」を中心にモーゼル拳銃は幅広く使用され、戦時中、福岡県警察部が「独逸モーゼル自動拳銃」として内務大臣に使用認可申請していたことから、群馬県警でも装備?された可能性を排除しきれず、外地の警察ではC96の射撃訓練の様子を写した記録写真も残されている。

戦時中の警察、旧日本軍でC96は使用されていたことから「旧軍けん銃を警察用に転換した」際に紛れ込んだ可能性も考えられ、「警察官の個人所有三三丁」にモーゼルが含まれた可能性も否定できない。昭和12年(1937年)に発売されたモーゼルHScの可能性も排除できず断定はできないが、非常に興味深い。





※ 昭和12年(1937年)に発売されたモーゼルHScの可能性も存在するが、C96の場合、戦時中、外地の警察官が装備しており、「C96がモーゼルを指す」可能は高い?

「(群馬県警のけん銃の数は)昭和二十一年二月六日の時点で五三丁であったが、翌二十二年二月には七銃種三一七丁と大幅に増加(中略) 三一七丁のうち二〇五丁が旧陸海軍が使用した一四年式けん銃であることなどから、警察官のけん銃携帯に備え、旧軍隊保管けん銃を警察用に保管転換したものと考えられる。」



※ 日本軍の拳銃としてもっとも有名な南部十四年式は、戦後も警察をはじめ海上保安庁等で使われた。



※ 各地の警察史を調べると十四年式と並んで二十六年式も多数使用されていたことがわかる。



※ 戦後警察で九四式拳銃の使用も確認されているが、十四年式、二十六年式、九四式以外の日本軍制式拳銃の名称は現在まで資料上では確認出来ていない。

旧軍けん銃の警察用への転換は「史料がなく詳細は不明」とするも、昭和21年から22年の間に行われたことが伺われる。

この部分に関するヒントは昭和21年にGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府がに発した、警察官のけん銃携帯が承認されたという「覚書」のなかにある。

昭和二十一年一月十六日
「日本警察の武装についての覚書」(抄)
(総司令部覚書)

一 最高司令部の得た情報に依ると、日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている由である。司令部より発せられた指令は必要な場合、日本の警察官がけん銃をもって武装することを禁止したことはないし、また、司令部としては何等このような禁止を意図したこともない。

二 日本の警察は日本警察が必要と認めた場合、其の任務を遂行するに際にけん銃を携帯することは何等差支えないことを茲(※ここ)に通告する。但し、日本の警察の使用し得るけん銃の総数は。司令部に依り許可された日本の警察力の総数を越えてはならないことは規定に定められている通りである。

三 現に日本警察の保有している凡ての銃器は、前述の各項に依って認可されたけん銃を除き、一九四六年三月一日又はそれ以前に既定の武装解除方式に従って、米国陸軍占領部隊に引き渡さなければならない。

(警察制度の経過資料編)


という内容の覚書が「警察射殺権に関スル覚書」とともに出された。覚書のなかでは「日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている由である」つまり、「日本政府と警察は武装解除を誤解して、けん銃の携行を「自主規制」しているが、GHQとしてはそのような指示はしておらず、必要とあれば武装しなさい。ただし、警察官定員数を超える装備は禁止。けん銃以外の銃器は武装解除の対象であるので、それぞれ現地の占領軍部隊に差し出しなさい――といっていることとなる。

「旧軍けん銃の警察用への転換」について群馬県警史は「史料がなく詳細は不明」とするも、この覚書が出された昭和21年1月16日から翌22年の間に行われたことが伺われ、この覚書がきっかけとなった可能性が高い。

福島県警史のいう、「昭和21年の時点で内務省警保局警務課長が連合国最高司令部CIS公安課を訪ね「警察官のけん銃携帯使用に関しての覚書」を受領したが、この際に「最高司令部から地方の進駐軍に対し、けん銃携帯許可を指令して頂きたい。各地で警察官のけん銃携帯を問題として取り上げるような所もあり、ぜひ警察官のけん銃携帯使用について徹底して頂けるよう取り扱われたい」と、要望するも、GHQ側は「警察官のけん銃携帯は当然のことであって、ことさらに通達して米軍に周知させる必要はない」と、述べた」という記述とも符合。

「この年(※昭和21年)の五月には連合軍から多量のけん銃が渡された。福岡県でも一〇〇〇丁が交付され、外勤警察官三人に一丁の割合でけん銃を所持するようになった(福岡県警史)」という記述も、時期的にこの覚書がきっかけとなったと考えられ、同時期に行われた「一部の米軍軍用けん銃の貸与、旧軍けん銃の転換」は、この覚書の「解釈」とも考えられる。

つまりGHQのいう「日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている」という「自主規制」に言及した覚書の発出の背景には地方進駐の占領部隊と、GHQの間で認識の差があり、地方進駐の米軍部隊でも、片や日本警察にけん銃を支給し、片や日本警察の装備していたけん銃を取り上げるなど対応が地方によってにばらつきがあったことが伺えるのだ。

そして、ようやくGHQの「お墨付き」がついた戦後日本警察の武装であったが、戦時中からの装備けん銃、戦後の米軍けん銃の貸与、旧軍けん銃の転換を行っても、昭和24年の米国貸与開始直前の警察行政監察報告では、「当時のけん銃は「警察官五名に一丁の割合でその様式は百七十数種に及んでいる」 (千葉県警察史)と整備が遅れており、つづいて昭和23年「警察力増強」を目的とした以下の覚書が出されることとなった。

同年(昭和23年)七月十八日警察装備増強のため連合国軍総司令部からの覚書によって、米国製けん銃が日本政府に引き渡されることになり、国家地方警察本部を通じ、逐次各都道府県に配分されることとなった。
本県(群馬県)では、昭和二十四年七月二十三日東京管区本部警務部長から「貸与けん銃の取扱いについて」(東管人発第三六〇号)が通達されたため、同月二十五日各課署長に対し次のとおり「米軍貸与けん銃について」(秘人装発第四六号)をもって、けん銃の受け入れ準備を指示した。


一 新けん銃の配布は、旧けん銃の修理のため貸与されたものであること。
二 紛失その他の事故防止について、その取扱いに注意すること。
三 けん銃射撃講習会を全警察官に対して実施するが、各人三日間一期三〇人宛の方針であるから計画通り受講させること
四 けん銃の貸与は原則として、講習修了者より行うこととする。
五 警察署における措置として
1 旧けん銃の回収準備を行うこと。
2 けん銃貸与簿を作成しておくこと。
3 けん銃の着装は帯革の完成まで、ズボンのバンドの右腰部に着用すること。


(中略)警察官に対するけん銃の個人貸与に伴って、昭和二十五年一月十日、「警察官服制の一部を改正する訓令」(国家地方警察訓第一一号)が定められけん銃、帯革、帯革止が制式化された。


と、「新けん銃は旧けん銃の修理」名目で秘密裏に配備されたこと、帯革などの装備品は「新けん銃」の支給と共に開始されたわけではなく、当初より国内製造されていたことが伺えて興味深い。

また群馬県警察史は「新けん銃」配布前後の様子をつづける。



※ 撮影年月日不詳なるも、「ガバ」には樹脂製グリップ、「ミリポリ」にはグリップアダプターが付けられていたことがわかる。

「けん銃操法指導要員として数人の警察官が、米軍基地に派遣され講習を受けるなどの措置もとられた。こうした準備を経て、同年(24年)九月国家地方警察官へはS&W三八口径回転式、自治体警察官にはコルト四五口径自動式が個人貸与され、警察官のけん銃常時携行が実施された。
けん銃の弾丸はS&Wについては六発装てんして予備たま一二発の一八発、チーフスペシャルは五発装てんして予備たま一〇発の計一五発、コルトは七発装てんして予備たま一四発の計二一発を所持させた。」


昭和24年当時、けん銃に弾は「フルロード」されていたことがわかる。また、上記記述では、「昭和24年の米国貸与けん銃(その後に日本政府へ譲渡)貸与開始当初からチーフスペシャルが含まれていた」というように読めてしまうが、S&W M36チーフスペシャルの販売は翌年の昭和25年(1950年)に米国で開始されていて、昭和24年(1949年)の米国による日本警察へのけん銃貸与とは時間が合わず、その後の規定等から引用した記述が混同され、誤解を受けるような記述になってしまったと考えるのが自然だろう。しかし、群馬県警察史の「けん銃予備たまケース」の記述部分では、

予備たまは、ばらのまま予備たま入れに収納していたが、吾妻地区警察署勤務巡査藤井省三がS&Wについては六発、チーフスペシャル及びコルトデテイクティブ(※原文ママ)については五発を固定して収納できる、次図のよびたまケースを考案した。本県では、昭和二十八年六月二十九日「けん銃予備たまケース使用及び取扱要綱」(群本例規第三八号)を定めている。






※ 「けん銃予備たまケース」の図。



※ 「けん銃予備たまケース」は「予備たま入れ」のなかに挿入する形で使用した。

現代でも「さすまた」を考案し、全国の警察で装備されるきっかけを作った群馬県警の先進性が垣間見えて面白い。この「けん銃予備たまケース」は革製の「予備たま入れ」のなかに使用するもので、「ツメかけ」がつけられた金属板状の「スピードローダー」ともいえる形状を持ったものであったが、この「けん銃予備たまケース」が例規集で定められた昭和28年(1953年)以前からチーフスペシャルは装備していたということになるが、「(戦後の)輸入けん銃」は千葉県警察史によると「昭和三十四年(1959年)度以降、警察官の増員に伴ってけん銃の整備が図られることとなり、当初、増員分のけん銃は輸入に頼っていたものの、昭和三十五年(1960年)度に初めて国産けん銃ニューナンブM60型が採用されたことから、同四十三年(1968年)度以降は一貫して同一銃種による整備が行われた」(千葉県警察史)とあり、この警察官増員に伴うけん銃の輸入開始以前から、「群馬県警ではチーフスペシャル、ディテクティブは存在していた」と読める。ここでいくつかの可能性が浮上する。

・昭和24年(1949年)の「米国貸与」時に軍用拳銃だけでなく、市販拳銃(チーフス1950年発売)も貸与された可能性。その場合、「米国貸与」も一括ではなく、複数回に分かれて行われた?こととなる。
・昭和34年(1959年)以降、チーフスペシャル、ディテクティブが輸入され、輸入後の規定が混同された可能性


以上の「説」が存在することとなる。

群馬県では「自治体警察は38口径回転式、国家警察がコルト45口径自動式」であったと記しており、福島県では「自治体警察は45口径のけん銃を持っていたんです。国警は38口径」(福島県警察史)とあり、自治体によって「米国貸与けん銃」の配布状況は異なっていたようだ。しかし、ここでは「牛殺し」こと「コルト45口径回転式」の記述はなく、群馬県警での配備の状況が見えてこない。



※ 情報を総合すると日本警察の「ミリガバ」には後天的な処理などで複数の表面処理が存在するも、比較的オリジナルの形を廃棄まで残していたと思われる。



※ 「ミリポリ」ことS&W military&police victory model。戦後米国より4インチと5インチが貸与され、一部は少なくとも平成16年まで使用された。

また、群馬県警察史はけん銃使用について、

「昭和二十四年五月二十八日威嚇射撃の禁止、警察官は単なる威嚇の為に構えてはならない、騒擾の鎮圧など部隊行動においては、現場の最高指揮官の指示によって使用するなどを内容とする一部改正(国家地方警察訓第一七号)が行われ」ていたが、「新けん銃」の導入、警察官の「けん銃全員装備」が開始されたことで、翌年には再度規定が変えられたことを記している。「同年(25年)四月十五日「警察官けん銃使用及び取扱規程」(国家地方警察訓第一七号)が制定された。主な改正点は、新たに安全の章が設けられ安全規則並びに取扱上の注意が加えられた(第六条)こと、あらかじめけん銃を取り出し構える場合(第七条)と、けん銃を撃つことのできる場合(第八条)がそれぞれ別に規定されたこと、威かく射撃が禁止(第一一条)されたこと、けん銃及び弾薬が常時携帯常時装てん(第一五条)に改められた」

現在とは異なる世相が透けて見えて興味深い。


――と、このように資料を突き合わせることで、少しだけ垣間見えてきた終戦直後の日本警察のけん銃事情であった。  

Posted by アホ支群本部 at 01:03Comments(4)調査研究