アクセスカウンタ
プロフィール
アホ支群本部
千葉県東葛郡市川町に大正年間に創業した「市川広小路 平和堂」。 創業以来、市川の地で国府台連隊をはじめ、軍部隊納めの商いを行うも市川空襲で焼夷弾の直撃を受け被災、廃業。 平成20年。半世紀余りの眠りから覚醒し、国防産業の「隙間のスキマ」を狙う「国防商会」として再始動。 部隊購入、隊員個人によるセミオーダー、PXメーカーに対する助言等、「かゆいところに手が届く」各種個人装備、被服、旧装備の復刻等を行っています。 詳細は「オーナーへメッセージ」よりご連絡下さい。
オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 10人
QRコード
QRCODE

スポンサーサイト


上記の広告は1ヶ月以上記事の更新がないブログに表示されます。
新しい記事を書くことで、こちらの広告の表示を消すことができます。  
Posted by ミリタリーブログ at

2013年01月29日

防弾ヘルメットについて 2 (M1ヘルメット他)

戦後警察装備を調べていて、なかなか実態の見えてこない防弾ヘルメット事情について、判明分を頭の中の整理を兼ねてメモ。前編の「防空鉄帽、九〇式鉄帽」http://heiwadou.militaryblog.jp/e402280.htmlに続いて、長期間にわたり使用され、現在でも一部で現役なM1ヘルメット(または同型品)について。

・M1ヘルメット



M1917、M1911などの米軍貸与けん銃と共に米軍から貸与されたと考えられる。古くは昭和27年5月に発生した「血のメーデー事件」での使用を確認。あさま山荘事件でも警視庁機動隊を中心に使用され、近年でも警視庁をはじめ、千葉県警などの大規模県警でも使用されており、非常に息の長い装備といえる。





昭和27年の血のメーデーでは写真中の警察官の顎紐の様子からライナーのみ単体で使用されているように見受けられる。このライナーヘルメットにも米軍からの貸与品?と、国産のものが存在し、内装などが大きく異なる。





※ 国産のライナーヘルメット。内装は独特のものが取り付けられている。ファイバーの積層も米軍用と異なる。製造は警察向けの装備品の多くを納入するスターライト工業製。(http://foxtrotdelta.militaryblog.jp/ 「foxtrotdelta」より)このライナーヘルメットの塗装もバリエーションが存在し、福島県警、大阪府警などは帽体正面に旭日章をペイントしており、白い階級線が帽体に入っているものも存在する。大規模な警備などでは中帽(ライナーヘルメット)だけでも使用されていた模様。



※ 昭和54年1月に発生した三菱銀行北畠支店人質事件に出動した大阪府警機動隊のM1ヘルメット。後付け防石面、防弾面はつけられていない。



※ あさま山荘事件時の警視庁機動隊。M1ヘルメットオリジナル?の顎紐が使用されている。ヘルメットには面体の厚みから防弾面ではなく、一般機動隊員用のSB8とおなじ防石面が後付されていたことがわかる。



※ 手前の機動隊員のM1ヘルメットには外帽(アウターシェル)の顎紐が取り付けられておらず、中帽(ライナー)の顎紐で装着。左後方の人物(佐々統括)のM1ヘルメットはオリジナルの顎紐?が取り付けられている。



※ あさま山荘事件での警視庁第2機動隊長と隊員。M1ヘルメットには耳覆いが取り付けられ、帽体正面には旭日章がペイントされていたことがわかる。



※ こちらは帽体正面のペイントはなく、防石面が付けられている。



※ 平成初期の籠城事件に出動した兵庫県警の警察官。「亀の子防弾チョッキ」と、面体の厚さからM1ヘルメットには防弾面が取り付けられていることがわかる。耳覆い、九〇式に似た「黒色のただの紐」が顎紐としてついている。この「後付け防弾面の取付られたM1ヘルメット」が現在も一部で使用されているM1ヘルメットの最終形態と考えられる。もともと機動隊などで使用された物が管理替えされたのか、外勤警察官用の防護装備としてながく使われているようだ。


また学生運動が先鋭化し、「銃による革命」が本格化した後は、県警本部ごとに防弾ヘルメットを調達していたといい、「払い下げ品店に警察官が来て大量にサープラス品の米軍M2ヘルメットを買って行き、後頭部に三角形の金具を増設して納めた」という証言もある。警察ではこれらのM1、M2ヘルメットの後頭部中央に金具を増設。九〇式鉄帽のような「ただの紐」を通して三点顎紐として使用していた。またこの時期に自衛隊向けに納入されていた66式鉄帽が警察向けに納入されたという情報もあり、遠目にはM1、M2、66式の区別は困難であり、その実際は見えてこない。

近年は銃器対策部隊などが使用する耳まで覆う帽体を持つジェットヘルメット型の防弾ヘルメットなどが導入されているが、昭和期の防弾ヘルメットは非常にバリエーションが多く、きちんとした仕様が定められていなかったのか、帽体自体の色や帽章の表示方法、アゴ紐の様式、内装の種類も多く、とても全体像はつかめきれないが、確実に存在が確認されている物を大まかに分類すれば、

防空鉄帽 灰色または紺色。帽章がついているものは制帽用の帽章、黄色または白色の塗装。内装の多くは戦後改造。顎紐はただの紐。

九〇式鉄帽 灰色または紺色。帽章がついているものは制帽用の帽章、黄色または白色の塗装。内装の多くは戦後改造。M1ライナー用?の内装を無理やり取り付けたものも。顎紐はただの紐。耳覆いのつけられていたものも存在?

M1(およびM2、66式鉄帽?)

(通常仕様) 紺色。帽章はないものが多く、塗装の場合、小型のものから全面いっぱいの巨大なものまで複数のバージョンあり。顎紐は70年代まではオリジナルのチンストラップ?が確認できる。耳覆いの取り付けられたものと、無い物が存在。中帽(ライナーヘルメット)には独自の内装を持つ国産品も存在。 

(防石面仕様) 通常?のものに追加して、SB8と同型の後付け防石面を取り付けたもの。耳覆いの取り付けられたものと、無い物が存在。

(防弾面仕様) 通常?のものに追加して、防石面の厚みを増した防弾面を取り付けたもの。耳覆いが付けられ、防弾面が重く前のめりになるため、後頭部に金具を増設。三点顎紐状になっている。正しくは脇の下に「顎紐」を通し、胸の前で結ぶ。


――中帽に国産品が存在しするなら外帽の国産はあったのか?あったのならそれが66式?九〇式鉄帽の耳覆いはどうやって取り付けた?と、けん銃事情と並んで調べれば調べるほどに混乱する「ヘルメット事情」。

さらには映画「突入せよ!あさま山荘事件」でも劇中に再現されていたが、「事件が発生して防弾ヘルメットをかき集めることとなったが、数が揃わず放出品店で売られていたイギリス軍の皿形ヘルメットまで警察が購入し、使用した」という証言もあり、どうやら防弾ヘルメットの規格自体が明確に規定されていなかったようで、まだまだバリエーションが存在する可能性がある――と、現物も残っていない、特殊な装備の為、警察官自体の記憶も曖昧――と、戦後警察の使用したけん銃事情以上に混迷極める防弾ヘルメット事情研究なのであった。  

Posted by アホ支群本部 at 02:22Comments(0)調査研究

2013年01月29日

防弾ヘルメットについて 1 (防空鉄帽、九〇式鉄帽)

昭和警察装備を調べていると、当時の事件の写真や映像なかに登場するヘルメットには様々な種類と、仕様が存在していることに気がつく。まずは内務省時代からの引継ぎ品の防空鉄帽と、旧軍の保管転換分と思われる九〇式鉄帽について。

・防空鉄帽



戦時中から使用された鉄帽で、主に空襲警報時の防空監視用に使用されたもので、旧陸軍の九〇式鉄帽と酷似しているが、防空鉄帽の場合、正面から見た際に九〇式に存在する頭頂部の膨らみ、頭頂部両側部の通気孔等がない。

鉄帽を製造していた工場の近所に暮らした人物の証言では「製造時の成形に失敗したキズ物が大量に敷地内に野積みにされていて、これらのキズ物は警察用に仕立て直すのだと聞いた」という証言もあるが、警察向けの防空鉄帽は警防団などで使われたものと同型と考えられる。

千葉県警察史によれば制式は「一 製式 金属製(白色)鉄兜型内部ニ装着用顎紐ヲ付ス 一 徽章 直径九分金色金属製略日章」とあり、描かれている図にも九〇式鉄帽に見られる通気孔等は確認できず、戦時中の警察で使用された鉄帽は防空鉄帽であったと考えられ、一般的に言われる「九〇式鉄帽を警察が使用していた」というのは間違えで、「警察は戦時中から防空鉄帽を使用しており、九〇式鉄帽とともに戦後も使われた」ということになるようだ。





北海道警?からの払下品では、内装はカーキ色ハンモックに革製のクッションパッドの取り付けられた内装に交換されており、帽章は失われ、黄色塗料によって旭日章がペイントされていた痕跡がある。また鉄帽自体の塗装はもともと灰色で塗られていた上から灰青色に塗り替えられており、戦後の早い時期は灰色、後年はダークブルーに近い灰色に塗られていたと思われる。


・九〇式鉄帽





戦後、旧日本軍の保管分を南部十四年式などの旧軍けん銃と共に九〇式鉄帽も警察用に転換されたものと考えられるが、旧軍けん銃の保管転換とともに詳細は不明。防空鉄帽とともに使用され、現存しているものには金属製帽章を持つもの、旭日章が塗装の場合も黄色塗装、白色塗装、さらには旭日章の大きさも大小さまざま――と、バリエーションが多く、帽体自体も灰色に塗られた物や、紺色であっても色目が異なっている場合が多い。本部ごとか、それこそ所属ごとに仕様が異なっていた模様。

灰色の帽体の場合、当時の機動隊車輛に塗られていた自動車用の塗料などで塗った?可能性――ありあわせの塗料で再塗装したと考えられるが、詳細は不明。

画像のものは警視庁払い下げの九〇式鉄帽。旧軍保管転換分?の改装後、未使用で保管され、昭和期に払い下げられたまま倉庫で保管されていたというもので、抜群の保存状態を誇る。内装は防空鉄帽のものとも異なる内装に交換されている。


以下、あさま山荘事件の映像からの切り出し画像。あさま山荘事件では警視庁機動隊がM1ヘルメットを改装した防弾ヘルメットを、長野県警機動隊が九〇式鉄帽または防空鉄帽を使用していることが確認できる。





上記の画像では、長野県機の九〇式鉄帽は灰色にペイントされ、帽章も白いペイントで描かれていたことがわかる。また、上の画像では4名とも九〇式鉄帽由来の「ただの紐」で顎紐を締めているが、下の画像ではSB8などにみられる耳覆いと思しきものが取り付けられている。しかし、映像の解像度が低く詳細は不明。後述するM1ヘルメットにも耳覆いのつけられているものと、付けられていないものが確認出来、「防弾ヘルメット」にどのような区分で耳覆いが取り付けられていたのか気になるところだ。



九〇式鉄帽は銃器が使用された事件現場では平成期に入ってからも使われ、平成4年に発生した福島県郡山市での銃撃戦でも警察官が着用。警視庁でも平成10年ごろまで使われたという。平成に入ってから警察からの払い下げは厳格化され、昭和期のようにそのまま放出されることはなくなったといい、断裁されてその多くは鉄屑として処分されたと考えられる。

――と、このままM1ヘルメットにまで言及しようと考えたが、非常に長文となるので、後編(http://heiwadou.militaryblog.jp/e402295.html)へ。  

Posted by アホ支群本部 at 01:44Comments(1)調査研究

2013年01月09日

機動隊について (読書)



年末年始はおさらいを兼ねて、「突入せよ!あさま山荘」の原作となった「連合赤軍「あさま山荘」事件」の著者で元・警察キャリアとして「警備畑」を歩んだ佐々淳行氏や、元警視庁警察官の原田弘氏の著作を読みふける。

どちらの著者も昭和20年代に警察官を拝命し、片や警察キャリアとしての指揮官の目線で過激化する学生運動の警備実施を振り返り、片や生粋の現場警察官として連続企業爆破事件ではパトカー勤務員として臨場。爆弾に吹き飛ばされ負傷――と、どちらの著者も「ひとりの警察官として見た昭和」をテーマとしているが、この両者の著作を読み較べた時のコントラストは非常に興味深い。

そして、「戦後警察の装備史」の視点から書物を読み返してみると、端々に興味深い記述が見つかる。

戦後日本警察の装備品に限定しても、内務省時代から引き継いだブローニングやコルトなどのけん銃。戦後のM1917、ガバメントをはじめとする米軍けん銃の貸与をはじめ、ジープやウェーポンキャリアなどの車輛や無線機。「チノパン、チノシャツ」やバックルブーツなどの米軍個人装備。さらには平成期に入ってからも使われ続けた旧軍の90式鉄帽や「亀の子防弾チョッキ」などの防弾装備や、機動隊の防石ネットとして使われた旧軍戦闘機の偽装網などの旧日本軍装備――と、内務省、米軍、日本軍の装備が入り混じり、これらをベースに独自に進化を遂げたものが戦後日本警察の装備と言え、このなかでも機動隊という存在が非常に独特な装備や、歴史・文化を持っている。



※ 「旧型装備」に身を包む機動隊員。この装備は過去半世紀にわたって使用され、現在も新型と並行して使用されている

現在の機動隊員の姿は2002年のワールドカップサッカー大会警備を機に導入された軽量化された新型防護装備である黒色の通称「ガッチャマン」に更新されつつあるが、戦後の学生運動隆盛期から21世紀の現在まで使われている、「機動隊」と聞いて多くの人が真っ先に連想するであろう「紺色の機動隊員」が身に着ける防護装備の構成品は頭部を保護し、頸椎ガードの取り付けられた「防石面付きヘルメット」、「ゲバ棒」の打撃から胴体を守る「防護衣」、股間を防護する「垂れ」、大盾からはみ出す脛を守る「脛当」、そして腕を守る「籠手」などから構成されているが、「防石面付きヘルメット」をはじめとした籠手や垂れなどの防護装備は戦国時代の兜を連想させ、手に持つ「大盾」のイメージとともに、機動隊のとる戦術も中世ヨーロッパの「ファランクス」や戦国時代の足軽を連想させる。(※装備品の名称は便宜上の名称)



※ 機動隊防護装備の新旧比較



※ 千葉県警年頭視閲で大盾操法の展示を行う成田空港警備隊

そして、小隊長以上の指揮官は旧軍の指揮刀にルーツを持つ階級ごとに色分けされた房付きの「指揮棒」を持ち、首に巻く白い「防炎マフラー」は、ときの警視総監が旧軍の零戦搭乗員のマフラーをヒントに導入が決まったといい、伝令は自隊の位置を表示する「提灯」を掲げるなど、旧日本軍の影響や、岡っ引き?の影響なども端々に見受けられる。



※ 全共闘の揺籃の地である日大の封鎖解除に出動した警視庁機動隊

とくに佐々淳行氏の著作――とくに「東大落城」(文春文庫 1996)のなかでは、過激化する学生運動とそれに対する警視庁機動隊のまさに血みどろの「警察戦国時代」が描かれるが、そのなかで、警備資器材の改善や導入などの紆余曲折に言及した部分も多い。たとえば当時の出動服、通称「乱闘服」は化繊生地で出来ていて、石から火炎瓶に学園紛争が過激化するなかで、化繊の出動服は燃えると熱で溶けて身体にへばりつき機動隊員の火傷が重症化する傾向にあったといい、ときの佐藤栄作総理大臣を機動隊の隊舎に連れてゆき、政治主導の「ウルトラC」で「防炎出動服を導入させた」というエピソードも披露されている。



※ 神保町書泉グランデ前で対峙するデモ隊と機動隊

以下、「東大落城」より抜粋。

どうしたら双方の怪我人を少なくして検挙数を増やせるか、私は知恵を絞る日々だった。(中略)
そこで思いついたのが「逃げると追ってくる」という勝利者の心理を逆用する伏兵戦法だった。
正面の部隊がわざと負けて逃げるふりをして、勝ち誇って追撃してくるゲバ学生たちを、
あらかじめ伏兵が待ち伏せしている地点に誘い込む。
携帯無線の通信で連絡し合い、ころあいをみてドッと側面から挟撃する。
同時に退却していた部隊が反転して浮足立った一番先頭の最も悪質な集団
を包囲し、一網打尽にするという作戦がその一つである。

二代将軍の凡将・徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子の守る上田城攻めで、この手に引っかかって大敗し、関ヶ原の合戦参着が遅れて家康にひどく叱られている。

(中略)

私は警備新戦術研究会で隊長たちを集め、この戦法を披露し、「以後この作戦を『俎(まないた)作戦』と呼称する」と宣言した。

(中略)

あわせて各機動隊に対して退却に際しては、命令一下いっせいに大盾を背中にひっかついで逃げる「亀の甲」態勢をとるよう、訓練を下命した。当時、連日の警備で多くの負傷隊員が出た訳だが、彼らの負傷部位をこまめに統計をとらせてみると、鎖骨、睾丸、小手に脛が多かったが、後退するときに追いすがられて角材、鉄パイプ、投石などにより頸椎と背骨をやられる「後ろ傷」も意外に馬鹿にならない数だった。しかもこれらの傷は後遺症を残す危険の高いことがわかった。そこで頸椎を保護する兜の錣(シコロ)状のプロテクターやアメリカン・フットボール用の睾丸プロテクターなどの装備化を急ぐと同時に、部隊行動として大盾を背負い背中をカバーしながら、組織的に「敵に後ろを見せて」退却する戦法を採用したのである。

(中略)

また「捨伏(すてがまり)」戦法という薩摩勢独特の退却戦術も導入した。
「ステガマリ?一体、何です、それは?」
と、隊長たちは怪訝な顔をする。私はだてに戦記物を読んでいるんじゃない。退却に際して催涙ガス分隊を三段列にわけて部隊後尾に折敷の姿勢で構えさせ、追いすがる暴徒に向けて第一列発射。すぐ走って逃げ、今度は第二列発射。第三列が発射する前にその後方に折敷いた第一列が装填を終えるという、追撃の先鋒を怯ませて本隊を逃がす戦法だ。

――と、機動隊の運用指揮を司る警備一課長だった佐々淳行氏は、相当な戦記マニアで、拳銃マニアであったそうだ。(佐々氏の著作を担当した編集長談)。「半分趣味」状態ともいえる戦国時代の戦技戦術の研究を行ったが、この背景には「70年安保」を控えて、過激化する学生運動で警視庁機動隊の負傷者が続出している事情があったという。

東大安田講堂の攻防戦にいたる全共闘の出発点となる日大闘争の警備実施だけで、紛争がはじまった昭和43年4月から45年6月までの約2年2ヶ月の間に「機動隊員のべ10万1691人がのべ277回出動し、殉職1名、重軽傷384名の損害を受け」たといい、この日大闘争をふくめた全体の警備実施では凄まじい数字が出ている。

「昭和四十三年中の警備実施回数・一千六十八回。検挙者数・五千百六十七名、負傷機動隊員数・四千三十三名。昭和四十四年は、東大安田講堂事件をふくめ、警備実施回数・二千八百六十四回、検挙者数・九千三百四十名、負傷隊員数・二千百九十五名」

という多くの負傷隊員を出しており、佐々氏はこの原因を「ゲバ棒と警棒の白兵戦」にあるとして、「放水の活用と催涙ガス弾の使用によるアウトレンジ戦法」へと警備戦術と装備を転換したという。そして、「戦後警察装備史」的な目線から見れば、この時期の警備実施の反省と教訓から機動隊員の被る「SB8型ヘルメット」の頸椎を守る「垂れ」が付けられ、機動隊のドクトリンともいえる「放水とガスと大盾」が確立されたといえ、高圧放水可能な放水車が整備され、数も少ない上に連日の警備で破損したジュラルミン製の大盾も増強された。「イギリスによる香港暴動鎮圧の教訓」から催涙ガスの使用が大々的に行なわれることとなり、昭和43年の新宿騒擾事件直後でさえ「警視庁に49挺2000発しかなかったガス銃」が増強されるきっかけとなったものが、この時期の警備実施であった――つまり、機動隊を象徴する「紺色の出動服姿の機動隊員」の姿が完成したのが、この昭和43年であったということが「東大落城」の文面から伺える。

しかし、そんな「警察戦国時代」には、機動隊員らは相当、「荒れていた」らしい。



※ 昭和38年(1963)当時の「白兵戦時代」の警備実施の様子。ヘルメットには「垂れ」がまだ取り付けられておらず、盾も旧型



※ 「ゲバ棒から火炎瓶へ」のデモ隊の戦術の変化で、機動隊の戦術も「白兵戦からアウトレンジ」へと変わって行った


ちょっとした騒ぎになった。
まず、「退却」というコンセプトを承知させるのが大変だった。古参の隊長、各級指揮官に拒否反応が起きたのである。

「伝統ある警視庁機動隊に向かって退却せよとは何事だ」「名誉ある頭号(一番の意)第一機動隊は『俎』だの、『総予備』だ、『退却』だなどという任務は絶対お断りだ」‥‥と隊長たちは気色ばむ。戦争体験を持つ旧軍の下士官兵出身者が多かったから、斃れて後已むという旧軍の用兵思想がまだ濃厚に残っていた。「敵に後ろを見せるは‥‥最後の一兵
まで一歩も下がらないというのが機動隊魂だ」などと、りきむのである。


また別の項では、

あの頃は下剋上の戦国時代。荒れた現場の指揮官たちは、卑怯未練な振る舞いがあったり不決断だったりすると、隊員たちから「しっかりしろっ!中隊長っ」などとどやしつけられたり、こづかれたりした。「下からの勤務評定」が厳しい時代だったが、それにしても今日、警視庁本部で機動隊長が上司のネクタイをつかんで怒鳴るなんていう光景は見られない。(中略)いまどきなら懲戒処分間違いなしの石川隊長の言動も「サブ、凄えなあ」ですんだ。

――戦国時代の戦術、戦法を研究し戦術化、防護装備も日本古来の鎧にヒントを得た機動隊。その精神は旧軍出身の元・下士官兵のベテランが精神と根性を注入し、警備計画の立案は「陸士出」をはじめとした元・旧軍将校が行ったという。実際の警備実施の現場では旧軍の「突撃に進め!」の号令に変わり、指揮官が指揮棒を振りおろし、「喚声前へ!」の号令とともに、数十名の機動隊員で投石、火炎瓶の雨の中を数千名の敵陣(デモ隊)めがけて突入。蛮勇を競うなど、まさに「男の花道」たる仕事だったという。



※ 神田神保町を埋め尽くすデモ隊



※ 「あさま山荘」後、凋落した新左翼運動は「三里塚」の成田空港反対闘争でさらに過激化してゆく

そうした戦術的、精神的なものをベースに、催涙ガスの使用などは英国の香港暴動の鎮圧からヒントを得た。さらに「汝殺スナカレ」という大前提のもと基本的に幹部以下はけん銃を携行せず、発砲もしない。警棒の使用も指揮官の命令という戦後日本的な「崇高な理念」のもと、「「忍耐」が美徳であると精神教育を施し、騒擾や暴動を「規制」し、「排除」し、「解散」させ、それでも従わないときは「生け捕り」にする――これが機動隊の基本原則」という、「日本の独創的な警察制度」であると佐々氏は語る。

異論反論は多々あるとはいえ、戦後日本の治安の現場で誇るべきことのひとつは、たとえ反体制派の騒乱であっても、一部例外を除いておなじ日本国民に銃口を向けなかったということは誇るべきことだろう。

「何を好んでそしりを受ける。損はやめろといわれても、信じているんだ太陽を、この世を花にするために、鬼にもなろうぜ機動隊」

学生からは「権力の走狗」と蔑まれ、学生寄りだった多くの市民からも白眼視されたという機動隊。趣味の世界でも自国の「警備警察」ということから、あまり語られることのなかった存在だが、その背景や取り巻くエピソードを調べると、これがなかなか面白く、戦後史的にも非常に興味深い存在だ。


――しかし、佐々淳行氏の著作の多くを読んでも、昭和40年代の高度経済成長に沸く日本のど真ん中で繰り返された連日連夜のデモ隊と機動隊の「戦争」は相当なものだったんだなと、改めて感じる次第。当時の機動隊員をはじめ、警察官の苦労を偲ぶ新春である。  

Posted by アホ支群本部 at 07:00Comments(4)雑記