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アホ支群本部
千葉県東葛郡市川町に大正年間に創業した「市川広小路 平和堂」。 創業以来、市川の地で国府台連隊をはじめ、軍部隊納めの商いを行うも市川空襲で焼夷弾の直撃を受け被災、廃業。 平成20年。半世紀余りの眠りから覚醒し、国防産業の「隙間のスキマ」を狙う「国防商会」として再始動。 部隊購入、隊員個人によるセミオーダー、PXメーカーに対する助言等、「かゆいところに手が届く」各種個人装備、被服、旧装備の復刻等を行っています。 詳細は「オーナーへメッセージ」よりご連絡下さい。
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Posted by ミリタリーブログ at

2014年03月25日

戦後警察けん銃について (資料編/皇宮警察史)

ひさしぶりのブログ更新。

今回は「皇宮警察史」を中心に戦後警察けん銃に関係する研究の中間報告。

皇宮警察本部の英訳は「Imperial Guard Headquarters」

その名が示す通り「皇室守護を目的とした国家機関」であり、その活動は皇居をはじめとした皇室関連施設であり、皇宮警察では一般の警察官が行う交通違反の取り締まりや、街頭での職務質問等の防犯活動などの警察活動の多くを行わず「お濠の中」で「日本の象徴及び国民統合の象徴である天皇陛下と皇族」をお護りし、皇室行事では儀礼服を着込んで皇室行事の一部として儀仗任務に就くなど、さまざまな特殊性を持つ警察組織である。



皇宮警察本部前に整列して記念写真に写る皇宮護衛官。巡査、巡査部長の階級章が上腕部。警部補以上は消防官風の階級章が右胸につく「昭和22年改正」(小改正を除く)であることから、「昭和31年改正」以前の冬服であることがわかる。



比較的後年に撮影されたと考えられる儀礼服での記念写真。

そんな皇宮警察本部が纏めた「皇宮警察史」(1976年版)より以下、抜粋。

「(皇宮警察では)拳銃は戦前からブローニングを携帯していたが、二十七年十月二十四日(中略)側衛員を除き十月十日からこれをチーフス・スペシャルに替え、さらに三十年六月一日から、SW三八レギュラー・レボルバー五吋けん銃に替え、併せてけん銃つり紐を使用することとした」

「ついで三十一年八月一日、(皇宮護衛官)全員に拳銃を個人貸与し、それによって拳銃取扱いに習熟して事故を防止し、愛護心を涵養し、員数不足による不便の解消と同一種による整一化を期した。しかし同回転式拳銃は米軍の軍用拳銃を活用したもので、形式・性能等の面で必ずしも適正なものではなかった」




「葉山御用邸正門にて(27.8)」 昭和27年。進駐軍由来のカーキ色の「チノパン、チノシャツ」を国産化したカーキ色の盛夏衣時代



「「儀礼服に身を包み」 昭和25年」 

――つまり、昭和27年にそれまで皇宮警察で使用していたブローニングからチーフスペシャルに「側衛員」をのぞいて支給したが、早くも3年後の昭和30年からは「SW三八レギュラー・レボルバー五吋けん銃」(S&W レギュレーションポリス)に代替――さらに翌31年に「全員に拳銃を個人貸与」したが、そこで貸与されたけん銃は「米軍の軍用回転式拳銃」(S&W ミリポリビクトリーモデルか?)だったと「皇宮警察史」は語る――いささか錯綜した記述であるが、要点を整理すれば、

【戦前~昭和27年】 ブローニング自動式 (※ 側衛員用)



【昭和27年~30年】 S&W チーフススペシャル (※ 側衛員はブローニング)





【昭和30年~31年】 S&W レギュレーションポリス



【昭和31年~ 】 S&W ミリポリビクトリーモデル ないし S&W M1917、COLT M1917





「側衛員を除き十月十日からこれをチーフス・スペシャル」に更新されたという記述からも、いわゆる「制服警察官」の皇宮護衛官がチーフス → レギュレーションポリス → ミリポリビクトリー?に代替されても、いわゆる「SP」的な任務を与えられている「側衛員」はブローニングを使用し続けられたと考えられる。

皇宮警察史はつづける。

「日本人の体格に合うよう若干小型化し、しかも性能もすぐれた「ニューナンブ」をわが国で製作し、国産の「ニューナンブ」を製作。皇宮警察でも四十四年十二月二十六日、二十二丁を採用し、儀仗隊員に携帯させ、以降徐々に増加させている」

以上の記述からも皇宮警察ではニューナンブM60の採用は、制式化された昭和35年から9年も経った昭和44年(1969年)からであることがわかり、新けん銃への切り替えも一斉ではなく「徐々に増加」。つまり、昭和44年以降も米軍軍用回転式けん銃と併用されたことが伺えるが、昭和天皇が崩御された際の「大喪の礼」警備では、ニューナンブ以外の旧型けん銃を携行する護衛官が多数目撃されており「皇宮警察史」のいう「昭和31年同一銃種による整一化を期した」という「整一化」が、「現場の護衛官」を指すのか?「皇宮警察全体」を指すのか?はっきりせず、後年までに整一化が完了したかについては――はなはだ疑問が残る。



参考。近年撮影された「32ワルサーPPK」を携行する制服姿の皇宮護衛官。皇宮護衛官のけん銃つりひもは伝統的に臙脂色のものが用いられている。

しかし、そのなかでも各県警本部史などの資料を突き合わせると「実包の共通化」を図るべく、雑多なけん銃と弾薬のうち、45口径をその大きさと重さから敬遠し、弾種を「38SPL」で統一しようとしていたフシがあり、ニューナンブとの使用弾薬が共通であることから、近年までミリポリビクトリーモデルが日本警察では使用され続け、さらに「操作、動作の異なるコルト式けん銃の評判は良くなかった」ということからも、「皇宮警察史」のいう「昭和31年の米軍軍用回転式拳銃による同一銃種による整一化」は日本警察に大量に譲渡(当初は貸与)されたS&W ミリタリーポリスビクトリーモデルであったと考えられるが、戦後にわざわざ輸入した「チーフス」はどこへ行ったのか?その後に導入されたS&W レギュレーションポリスの行方は?それらは他本部へ管理替え?――と、ひとつの事実がわかれば新たな謎がやっぱり生まれる戦後警察けん銃の調査なのであった。

  

Posted by アホ支群本部 at 01:10Comments(8)調査研究

2013年05月30日

M1カービン製品化?

――と、「沖縄のカービン」についてしたためていたらすっかり本題を忘れていたので別記事にて。



「King Arms // M1 Carbine coming soon!」
http://blog.airsoftcommunity.de/king-arms-m1-carbine-coming-soon

「RedFireHK(Facebook)」
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.653790844636244.1073741827.519584648056865&type=1

局地的に話題となっていたKingarms製のM1カービンの試作品がここ数日、海外でも話題になっている気配。

個人的には四季を通じて使える電動であって欲しい――と、願うも、チャンバー周辺の様子からガスブローバックの雰囲気。



https://www.facebook.com/photo.php?fbid=653791381302857&set=a.653790844636244.1073741827.519584648056865&type=3&theater

「使えるカービン」が発売されれば、前出の「沖縄円ドル交換輸送警備」。ちょっといじってしまえば「金嬉老事件」の豊和M300も再現できちゃう。さらには警察予備隊から21世紀初頭の「空自の三線基地」まで再現出来ちゃうのである。





意外にも「日本の鉄砲」的に穴であったM1カービン。続報が気になる今日この頃。  

Posted by アホ支群本部 at 18:01Comments(5)雑記

2013年05月30日

「沖縄」のカービン

やっとこ書き上げた記事がうっかり消えて、目の前真っ白になった堂主です。


「特殊銃(ゴールデンベア)導入前に「特殊銃に相当する長物」を日本警察は装備していたのか?」

という各方面からの疑問にこたえて調査。その中間報告。

「特殊銃(ゴールデンベア)は、金嬉老事件をきっかけに全国警察本部で整備され、本県にも配備された」と、千葉県警察史の記す「特殊銃導入の顛末」。金嬉老事件が発生したのは1968年(昭和43年)2月20日。この昭和43年以前に「日本警察が長物を持っていたか?」といえば、広い意味で持ってはいた――ともいえるが、その背景は複雑だ。



「1972年(昭和47年)5月 先島(宮古島・石垣島)へ現金輸送」

「沖縄県警察10年の歩み(沖縄県警察本部)」に掲載されている写真のなかの警察官の肩には紛れもなくM1カービンが写っている。



拡大した写真のなかで振り返る警察官の腰にはガバメント。米軍からけん銃とともに貸与(その後に供与)されたと考えられる米軍用のM1916ホルスターでガバメントを携行していた様子がわかるが、M1916ホルスターの弾帯にひっかけるワイヤーでは警察官用の帯革には取り付けられないことから、帯革とホルスターの間に「騎兵用」のようなアタッチメントを介して取り付けていたことがわかる。

これらのカービン銃やけん銃は1945年(昭和20年)11月29日に、アメリカ占領下の沖縄の玉城村(たまぐすくそん。現・南城市)で、アメリカ兵による婦女暴行を阻止しようとした警察官が米兵に殺害された「玉城村警察官殺害事件」などがきっかけとなっており、「1946年7月に米国軍政府は民警察官の銃器使用を認めることとし、米軍の軍用拳銃とカービン銃(米国製M1カービン)が沖縄民警察(1946年2月発足)に貸与された。日本本土の警察とは異なり常時の携行ではなく、緊急時や所属長の許可を得た場合に使用するものとなった」とされ、この際に沖縄民警察部に貸与された小火器は、本土の警察に対する貸与と同じく、その後、供与に切り替わり、長年装備され続けたと考えられ、1952年(昭和27年)4月1日の琉球警察本部設置後もカービン銃は引き継がれた。

しかし、wikipedia「琉球警察」の脚注では、

「本土の警察と異なり、銃器の常時携帯をせず装備数が限られていた代わりに、拳銃の他にカービン銃(米国製M1カービン)を装備に含んでいた。拳銃・カービン銃は、当初、沖縄住民への米軍関係者による性犯罪等の凶悪犯罪の抑止効果を狙って、1946年7月に米国軍政府が当時の沖縄民警察に対し警察官による使用を認めており(『写真集 沖縄戦後史』(那覇出版社 1986年)250頁)、琉球警察にも承継された。以降、カービン銃は、暴動等の集団的事件の鎮圧や、通貨切換時の通貨交換所警備、暴力団抗争事件等の銃器犯罪対策等の用途に本土復帰まで使用された。本土復帰後はカービン銃を廃し、他都道府県警察と同様、拳銃の常時携帯がなされるようになった。」

との記述があるが、引用元の資料をあたれていないため、詳細は不明であるが、wikipedia脚注の記述が正しい場合、「沖縄返還を機に(沖縄県警察本部発足時?)にカービン銃は廃止。警察官のけん銃の常時携行が行われた」ということとなり、「沖縄のカービン」は沖縄の本土復帰の際の「円ドル交換輸送警備」が最後の奉公の場となった可能性が高い。



※ 通貨交換は58年のドル交換以来で、カービン銃武装の警官隊約400人が軍港から日本銀行那覇支店まで警備、武装した米軍憲兵隊も出動した(1972年5月2日)

またこれらのカービン銃は返還前の沖縄では度々警察官に携帯されていたようで、終戦後まで「博徒・テキヤ」といった「ヤクザ」の概念のなかった沖縄では終戦後に「アシバ―」と呼ばれる遊び人や、「戦果アギャー」と呼ばれた強盗団。台湾・香港などと密貿易を行っていた組織などがベースとなって、その後の「沖縄ヤクザ」の源流となる組織が形成されていった。

これらの組織は米軍基地と、その周辺に形成された繁華街の利権を巡って度々、凄惨な抗争事件を起こし、これらの抗争事件で警戒などにあたる琉球警察当時の警察官――警視庁や大阪府警で訓練を受け、制服などの服制も警察庁の規定に準じていた――が、M1カービンを手に抗争を警戒したという。

「制服警察官がカービン銃」という沖縄の事情。

沖縄県警。その前身の琉球警察、さらにその前身の民警察と、一度、完全に敗戦、占領で警察機構が完全に解体されていることから、「基地の島」という背景と合わさって沖縄の警察組織は一種、独特な歴史を持っている。



現在も「基地に逃げ込まれる(=日米地位協定が立ちふさがる)前に容疑者を確保」するため、沖縄県警では米軍関係者による犯罪の初動捜査に当たる全国唯一の組織として「渉外機動警ら隊」(渉警隊)を持っており、その特殊性はいまも昔も変わらない。

この動画は「昨年、暴力団組員と間違えられ射殺された高校生」のくだりから1990年(平成元年)に放送されたものと特定出来る。「渉警 SPECIAL POLICE」と刺繍された紫の腕章を巻いて沖縄の繁華街を駆け回る渉警隊の密着取材。1990年~92年にわたってつづいた第6次沖縄抗争の警戒警備の様子が伺い知れて興味深い。


しかし、沖縄の警察の歴史を少し調べただけでも米兵による「女性対象暴力」のあまりの多さ。警察官への暴行、殺人。「遊び半分で農作業中の住民を狙撃」――と、戦後沖縄史を斜め読みするだけで、「左巻き」でなくとも沖縄県民の持つ反基地感情は理解できる。ここは政治や時事問題を語る場所ではないので省略するが、「趣味」の目線からも透けて見える戦後沖縄の歴史はまこと悲哀の連続だ。  

Posted by アホ支群本部 at 17:26Comments(2)調査研究

2013年02月12日

戦後警察けん銃について (モーゼル拳銃)

「群馬県警察史」において使用が確認された「モーゼル拳銃」。

終戦まで朝鮮や、満州などの外地では警察官にモーゼルC96が使用されており、日本軍でも「モ式大型自動拳銃」として準制式化されていたことから、



「戦後日本警察でも『モーゼル』ことC96が使われていた?」

と、局地的に話題となっていたが、前回記事の掲載後に情報が寄せられたので、ご報告。

おさらいすれば「群馬県警察史」では、昭和23年3月当時で「一四年式(214丁)」に次ぐ勢力として「モーゼル(38丁)」が群馬県下の各警察署に1~2丁配置されており、本部保管分と合わせた場合、数の上では「群馬県警の主力けん銃」であったことが記されている。

以下、日本軍研究をされている在野の研究家の方から頂いたお便り。

「昭和6年に、福岡県警察部では「放縦無節制ナル渡者蝟集」する鉱山等の警戒のため私服員に対し「4 1/2インチ モーゼル十連発自働拳銃」の帯用許可が申請され認可されています。この当時に「モーゼルHSC自働拳銃」はありませんから、この「4 1/2吋(インチ)モーゼル十連発自働拳銃」はおそらく「モーゼルM1910自働拳銃」あるいは「モーゼルM1914自働拳銃」のことと推測されます。」(千葉県 てつさん)

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A05032023700





※ 広告中には25口径で「全長四寸二分」(※約126㎜)、32口径で「全長五寸(※約150㎜)」の文字が確認できる。





※ 国立公文書館に保管されている「警察官吏拳銃帯用の件(福岡県)」では「独逸モーゼル自動拳銃 全長4 2/1吋(インチ。=113.76㎜) 十連發」と記されているため、福岡県警で使用されたモーゼルは「全長113.76㎜のモーゼル自動拳銃」ということになり、寸法的にはモーゼル自動拳銃のうち25口径のものが「全長四寸二分」(※約126㎜)と近似しており、25口径のものを使用していた可能性が高い?

――と、調査を進めていたところ、新たなお便りを頂戴。

「写真の銃がモーゼル拳銃です。同形で小型と大(中)型があり、口径も小型が25口径で大型が32口径です、カタログからも解るように日本軍の将校の私物や官公庁向けといては戦前はかなりポピュラーな存在でした。文鎮モデル(大型)を見ても、ブローニングと同等のコンパクトさが見てとれます。」(千葉県 からし伍長さん)





※ 文中には「総長 四吋八分ノ三」(約110.59㎜)、「弾倉装填数 九發」の記述が確認できる。

ここで改めてC96はじめ、いわゆる「モーゼルミリタリー」の諸元を見てみると、



全長 308mm
銃身長  140mm
装弾数 10発、20発


C96の銃身長は140㎜であり、「警察官吏拳銃帯用の件(福岡県)」の資料中にある全長4 2/1吋(=113.76㎜) 十連發」の全長をはるかに超えており、全長では180㎜余りの違いがある。この時点でC96が福岡県警察部で使用されていた可能性は排除することが出来る。

wikipediaの「モーゼルC96」ページの「運用」の項目の、

「戦前、日本の警察の一部でも採用された例(福岡県警察部が「独逸モーゼル自動拳銃」として内務大臣に使用認可申請)がある。」

以上の記述は誤りであることが判明。これは記述の根拠となった資料を読めばわかる部分であったはずだが、「モーゼル=C96」という「そうであって欲しい」というマニア特有の思い込みが招いた編集者の誤記であったといえる。こういった個人の「思い込み」がwikipediaなどに記載され、拡散することで、誤りが固定化される部分があり、歴史は捏造される。「wikipediaはソースに成り得ない」ということを証明したかたちといえる。

「群馬県警のモーゼル」に話を戻せば、

・福岡県警で使用された「モーゼル自動拳銃」はM1910またはM1914の可能性が高い
・終戦まで日本軍将校の私物拳銃として「モーゼル自動拳銃」は広く流通し、入手が容易であった
・内務省時代から警視庁などはブローニングなどの小型けん銃を使用していた
・終戦まで警察官個人の「私物拳銃」が存在した


などの要素から、群馬県警で戦後混乱期に使用された「モーゼル」も「モーゼルM1910自働拳銃」「モーゼルM1914自働拳銃」の可能性が高まったといえるが、「モーゼル自動拳銃」と呼ばれた拳銃のバリエーションは多く、文中でも度々言及した「警察官吏拳銃帯用の件(福岡県)」もタイトルの通り、戦前の福岡県警察部での話であって、戦後の群馬県警にそのままあてはめられるものでもなく、さらには終戦まで「警察官の私物拳銃」が存在。各地の警察史を読めば、これらの私物拳銃が戦後も管理替えして使われた記述があり、このなかにいくつかの種類のモーゼルが紛れ込んだ可能性もある――と、やはり一筋縄にはいかない戦後警察けん銃事情の調査なのであった。  

Posted by アホ支群本部 at 02:33Comments(2)調査研究

2013年02月11日

旭日祭

急遽開催された「旭日祭」のご報告。コミケでの「自宅警備隊はじめてのお使い(社会(=権力)のカベを知る)」をきっかけに各地で局地的なブームが巻き起こっている昭和ポリス。そんな昭和ポリス野郎による、昭和ポリス野郎の為のミーティングが開催されたのでご報告。



90鉄帽に「牛殺し」45口径で、「血のメー●ー状態」。



コンテナを検索中。背広に略帽が関西テイスト。



ゴミ穴にただ立つだけで瞬間、「事件」が現出する。



リボルバー祭(←ほぼ回転魂状態)。参加各員の使用けん銃は「ニューナンブ77㎜」、「S&W M1917」、「S&W M10」、「M1911A1」と昭和感度MAX。M1917が多数参加したところに皆の昭和愛が光る。



「漢は背中で魅せる」を地でゆく、アニキたちの後ろ姿。やはり古今東西、「集団の統制美」こそがミリタリー趣味の醍醐味である。



ただ階段を上るだけ出も絵になる昭和ポリス。



「盛夏野郎」の集結した2012年の「第一回旭日祭」の様子。大盾は在沖米軍払下げ。

以下、参加者の装備――といっても、被服は皆、一様に同じなので、個性の光る腰回りについて。



平成に入っても使われたという米軍型ホルスター。ホックの改造された物や、国産のコピー品も存在したという。紺色つりひもがオシャレ。



戦後少数が輸入されたというミリポリM104インチ。グリップアダプターは代用品。が、管理タグの模造品が「お役所感」を底上げし、妙な説得力が生まれる。



昭和時代には外勤警察官用に広く使われたミリポリ用の蓋つきけん銃入れ。

――と、報道写真のなかでしかもはや存在しない昭和ポリスが、大挙、現出した旭日祭。

「内容の濃さに知恵熱が出るかと思った」

「統制美の大事さをつくづく痛感した」

「ディーティルに神が宿るというのは本当だ。ダサ恰好よさこそ「昭和」の真髄だ」


と、非常な好評を博した旭日祭なのであった。  

Posted by アホ支群本部 at 13:57Comments(4)雑記

2013年01月29日

防弾ヘルメットについて 2 (M1ヘルメット他)

戦後警察装備を調べていて、なかなか実態の見えてこない防弾ヘルメット事情について、判明分を頭の中の整理を兼ねてメモ。前編の「防空鉄帽、九〇式鉄帽」http://heiwadou.militaryblog.jp/e402280.htmlに続いて、長期間にわたり使用され、現在でも一部で現役なM1ヘルメット(または同型品)について。

・M1ヘルメット



M1917、M1911などの米軍貸与けん銃と共に米軍から貸与されたと考えられる。古くは昭和27年5月に発生した「血のメーデー事件」での使用を確認。あさま山荘事件でも警視庁機動隊を中心に使用され、近年でも警視庁をはじめ、千葉県警などの大規模県警でも使用されており、非常に息の長い装備といえる。





昭和27年の血のメーデーでは写真中の警察官の顎紐の様子からライナーのみ単体で使用されているように見受けられる。このライナーヘルメットにも米軍からの貸与品?と、国産のものが存在し、内装などが大きく異なる。





※ 国産のライナーヘルメット。内装は独特のものが取り付けられている。ファイバーの積層も米軍用と異なる。製造は警察向けの装備品の多くを納入するスターライト工業製。(http://foxtrotdelta.militaryblog.jp/ 「foxtrotdelta」より)このライナーヘルメットの塗装もバリエーションが存在し、福島県警、大阪府警などは帽体正面に旭日章をペイントしており、白い階級線が帽体に入っているものも存在する。大規模な警備などでは中帽(ライナーヘルメット)だけでも使用されていた模様。



※ 昭和54年1月に発生した三菱銀行北畠支店人質事件に出動した大阪府警機動隊のM1ヘルメット。後付け防石面、防弾面はつけられていない。



※ あさま山荘事件時の警視庁機動隊。M1ヘルメットオリジナル?の顎紐が使用されている。ヘルメットには面体の厚みから防弾面ではなく、一般機動隊員用のSB8とおなじ防石面が後付されていたことがわかる。



※ 手前の機動隊員のM1ヘルメットには外帽(アウターシェル)の顎紐が取り付けられておらず、中帽(ライナー)の顎紐で装着。左後方の人物(佐々統括)のM1ヘルメットはオリジナルの顎紐?が取り付けられている。



※ あさま山荘事件での警視庁第2機動隊長と隊員。M1ヘルメットには耳覆いが取り付けられ、帽体正面には旭日章がペイントされていたことがわかる。



※ こちらは帽体正面のペイントはなく、防石面が付けられている。



※ 平成初期の籠城事件に出動した兵庫県警の警察官。「亀の子防弾チョッキ」と、面体の厚さからM1ヘルメットには防弾面が取り付けられていることがわかる。耳覆い、九〇式に似た「黒色のただの紐」が顎紐としてついている。この「後付け防弾面の取付られたM1ヘルメット」が現在も一部で使用されているM1ヘルメットの最終形態と考えられる。もともと機動隊などで使用された物が管理替えされたのか、外勤警察官用の防護装備としてながく使われているようだ。


また学生運動が先鋭化し、「銃による革命」が本格化した後は、県警本部ごとに防弾ヘルメットを調達していたといい、「払い下げ品店に警察官が来て大量にサープラス品の米軍M2ヘルメットを買って行き、後頭部に三角形の金具を増設して納めた」という証言もある。警察ではこれらのM1、M2ヘルメットの後頭部中央に金具を増設。九〇式鉄帽のような「ただの紐」を通して三点顎紐として使用していた。またこの時期に自衛隊向けに納入されていた66式鉄帽が警察向けに納入されたという情報もあり、遠目にはM1、M2、66式の区別は困難であり、その実際は見えてこない。

近年は銃器対策部隊などが使用する耳まで覆う帽体を持つジェットヘルメット型の防弾ヘルメットなどが導入されているが、昭和期の防弾ヘルメットは非常にバリエーションが多く、きちんとした仕様が定められていなかったのか、帽体自体の色や帽章の表示方法、アゴ紐の様式、内装の種類も多く、とても全体像はつかめきれないが、確実に存在が確認されている物を大まかに分類すれば、

防空鉄帽 灰色または紺色。帽章がついているものは制帽用の帽章、黄色または白色の塗装。内装の多くは戦後改造。顎紐はただの紐。

九〇式鉄帽 灰色または紺色。帽章がついているものは制帽用の帽章、黄色または白色の塗装。内装の多くは戦後改造。M1ライナー用?の内装を無理やり取り付けたものも。顎紐はただの紐。耳覆いのつけられていたものも存在?

M1(およびM2、66式鉄帽?)

(通常仕様) 紺色。帽章はないものが多く、塗装の場合、小型のものから全面いっぱいの巨大なものまで複数のバージョンあり。顎紐は70年代まではオリジナルのチンストラップ?が確認できる。耳覆いの取り付けられたものと、無い物が存在。中帽(ライナーヘルメット)には独自の内装を持つ国産品も存在。 

(防石面仕様) 通常?のものに追加して、SB8と同型の後付け防石面を取り付けたもの。耳覆いの取り付けられたものと、無い物が存在。

(防弾面仕様) 通常?のものに追加して、防石面の厚みを増した防弾面を取り付けたもの。耳覆いが付けられ、防弾面が重く前のめりになるため、後頭部に金具を増設。三点顎紐状になっている。正しくは脇の下に「顎紐」を通し、胸の前で結ぶ。


――中帽に国産品が存在しするなら外帽の国産はあったのか?あったのならそれが66式?九〇式鉄帽の耳覆いはどうやって取り付けた?と、けん銃事情と並んで調べれば調べるほどに混乱する「ヘルメット事情」。

さらには映画「突入せよ!あさま山荘事件」でも劇中に再現されていたが、「事件が発生して防弾ヘルメットをかき集めることとなったが、数が揃わず放出品店で売られていたイギリス軍の皿形ヘルメットまで警察が購入し、使用した」という証言もあり、どうやら防弾ヘルメットの規格自体が明確に規定されていなかったようで、まだまだバリエーションが存在する可能性がある――と、現物も残っていない、特殊な装備の為、警察官自体の記憶も曖昧――と、戦後警察の使用したけん銃事情以上に混迷極める防弾ヘルメット事情研究なのであった。  

Posted by アホ支群本部 at 02:22Comments(0)調査研究

2013年01月29日

防弾ヘルメットについて 1 (防空鉄帽、九〇式鉄帽)

昭和警察装備を調べていると、当時の事件の写真や映像なかに登場するヘルメットには様々な種類と、仕様が存在していることに気がつく。まずは内務省時代からの引継ぎ品の防空鉄帽と、旧軍の保管転換分と思われる九〇式鉄帽について。

・防空鉄帽



戦時中から使用された鉄帽で、主に空襲警報時の防空監視用に使用されたもので、旧陸軍の九〇式鉄帽と酷似しているが、防空鉄帽の場合、正面から見た際に九〇式に存在する頭頂部の膨らみ、頭頂部両側部の通気孔等がない。

鉄帽を製造していた工場の近所に暮らした人物の証言では「製造時の成形に失敗したキズ物が大量に敷地内に野積みにされていて、これらのキズ物は警察用に仕立て直すのだと聞いた」という証言もあるが、警察向けの防空鉄帽は警防団などで使われたものと同型と考えられる。

千葉県警察史によれば制式は「一 製式 金属製(白色)鉄兜型内部ニ装着用顎紐ヲ付ス 一 徽章 直径九分金色金属製略日章」とあり、描かれている図にも九〇式鉄帽に見られる通気孔等は確認できず、戦時中の警察で使用された鉄帽は防空鉄帽であったと考えられ、一般的に言われる「九〇式鉄帽を警察が使用していた」というのは間違えで、「警察は戦時中から防空鉄帽を使用しており、九〇式鉄帽とともに戦後も使われた」ということになるようだ。





北海道警?からの払下品では、内装はカーキ色ハンモックに革製のクッションパッドの取り付けられた内装に交換されており、帽章は失われ、黄色塗料によって旭日章がペイントされていた痕跡がある。また鉄帽自体の塗装はもともと灰色で塗られていた上から灰青色に塗り替えられており、戦後の早い時期は灰色、後年はダークブルーに近い灰色に塗られていたと思われる。


・九〇式鉄帽





戦後、旧日本軍の保管分を南部十四年式などの旧軍けん銃と共に九〇式鉄帽も警察用に転換されたものと考えられるが、旧軍けん銃の保管転換とともに詳細は不明。防空鉄帽とともに使用され、現存しているものには金属製帽章を持つもの、旭日章が塗装の場合も黄色塗装、白色塗装、さらには旭日章の大きさも大小さまざま――と、バリエーションが多く、帽体自体も灰色に塗られた物や、紺色であっても色目が異なっている場合が多い。本部ごとか、それこそ所属ごとに仕様が異なっていた模様。

灰色の帽体の場合、当時の機動隊車輛に塗られていた自動車用の塗料などで塗った?可能性――ありあわせの塗料で再塗装したと考えられるが、詳細は不明。

画像のものは警視庁払い下げの九〇式鉄帽。旧軍保管転換分?の改装後、未使用で保管され、昭和期に払い下げられたまま倉庫で保管されていたというもので、抜群の保存状態を誇る。内装は防空鉄帽のものとも異なる内装に交換されている。


以下、あさま山荘事件の映像からの切り出し画像。あさま山荘事件では警視庁機動隊がM1ヘルメットを改装した防弾ヘルメットを、長野県警機動隊が九〇式鉄帽または防空鉄帽を使用していることが確認できる。





上記の画像では、長野県機の九〇式鉄帽は灰色にペイントされ、帽章も白いペイントで描かれていたことがわかる。また、上の画像では4名とも九〇式鉄帽由来の「ただの紐」で顎紐を締めているが、下の画像ではSB8などにみられる耳覆いと思しきものが取り付けられている。しかし、映像の解像度が低く詳細は不明。後述するM1ヘルメットにも耳覆いのつけられているものと、付けられていないものが確認出来、「防弾ヘルメット」にどのような区分で耳覆いが取り付けられていたのか気になるところだ。



九〇式鉄帽は銃器が使用された事件現場では平成期に入ってからも使われ、平成4年に発生した福島県郡山市での銃撃戦でも警察官が着用。警視庁でも平成10年ごろまで使われたという。平成に入ってから警察からの払い下げは厳格化され、昭和期のようにそのまま放出されることはなくなったといい、断裁されてその多くは鉄屑として処分されたと考えられる。

――と、このままM1ヘルメットにまで言及しようと考えたが、非常に長文となるので、後編(http://heiwadou.militaryblog.jp/e402295.html)へ。  

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2013年01月09日

機動隊について (読書)



年末年始はおさらいを兼ねて、「突入せよ!あさま山荘」の原作となった「連合赤軍「あさま山荘」事件」の著者で元・警察キャリアとして「警備畑」を歩んだ佐々淳行氏や、元警視庁警察官の原田弘氏の著作を読みふける。

どちらの著者も昭和20年代に警察官を拝命し、片や警察キャリアとしての指揮官の目線で過激化する学生運動の警備実施を振り返り、片や生粋の現場警察官として連続企業爆破事件ではパトカー勤務員として臨場。爆弾に吹き飛ばされ負傷――と、どちらの著者も「ひとりの警察官として見た昭和」をテーマとしているが、この両者の著作を読み較べた時のコントラストは非常に興味深い。

そして、「戦後警察の装備史」の視点から書物を読み返してみると、端々に興味深い記述が見つかる。

戦後日本警察の装備品に限定しても、内務省時代から引き継いだブローニングやコルトなどのけん銃。戦後のM1917、ガバメントをはじめとする米軍けん銃の貸与をはじめ、ジープやウェーポンキャリアなどの車輛や無線機。「チノパン、チノシャツ」やバックルブーツなどの米軍個人装備。さらには平成期に入ってからも使われ続けた旧軍の90式鉄帽や「亀の子防弾チョッキ」などの防弾装備や、機動隊の防石ネットとして使われた旧軍戦闘機の偽装網などの旧日本軍装備――と、内務省、米軍、日本軍の装備が入り混じり、これらをベースに独自に進化を遂げたものが戦後日本警察の装備と言え、このなかでも機動隊という存在が非常に独特な装備や、歴史・文化を持っている。



※ 「旧型装備」に身を包む機動隊員。この装備は過去半世紀にわたって使用され、現在も新型と並行して使用されている

現在の機動隊員の姿は2002年のワールドカップサッカー大会警備を機に導入された軽量化された新型防護装備である黒色の通称「ガッチャマン」に更新されつつあるが、戦後の学生運動隆盛期から21世紀の現在まで使われている、「機動隊」と聞いて多くの人が真っ先に連想するであろう「紺色の機動隊員」が身に着ける防護装備の構成品は頭部を保護し、頸椎ガードの取り付けられた「防石面付きヘルメット」、「ゲバ棒」の打撃から胴体を守る「防護衣」、股間を防護する「垂れ」、大盾からはみ出す脛を守る「脛当」、そして腕を守る「籠手」などから構成されているが、「防石面付きヘルメット」をはじめとした籠手や垂れなどの防護装備は戦国時代の兜を連想させ、手に持つ「大盾」のイメージとともに、機動隊のとる戦術も中世ヨーロッパの「ファランクス」や戦国時代の足軽を連想させる。(※装備品の名称は便宜上の名称)



※ 機動隊防護装備の新旧比較



※ 千葉県警年頭視閲で大盾操法の展示を行う成田空港警備隊

そして、小隊長以上の指揮官は旧軍の指揮刀にルーツを持つ階級ごとに色分けされた房付きの「指揮棒」を持ち、首に巻く白い「防炎マフラー」は、ときの警視総監が旧軍の零戦搭乗員のマフラーをヒントに導入が決まったといい、伝令は自隊の位置を表示する「提灯」を掲げるなど、旧日本軍の影響や、岡っ引き?の影響なども端々に見受けられる。



※ 全共闘の揺籃の地である日大の封鎖解除に出動した警視庁機動隊

とくに佐々淳行氏の著作――とくに「東大落城」(文春文庫 1996)のなかでは、過激化する学生運動とそれに対する警視庁機動隊のまさに血みどろの「警察戦国時代」が描かれるが、そのなかで、警備資器材の改善や導入などの紆余曲折に言及した部分も多い。たとえば当時の出動服、通称「乱闘服」は化繊生地で出来ていて、石から火炎瓶に学園紛争が過激化するなかで、化繊の出動服は燃えると熱で溶けて身体にへばりつき機動隊員の火傷が重症化する傾向にあったといい、ときの佐藤栄作総理大臣を機動隊の隊舎に連れてゆき、政治主導の「ウルトラC」で「防炎出動服を導入させた」というエピソードも披露されている。



※ 神保町書泉グランデ前で対峙するデモ隊と機動隊

以下、「東大落城」より抜粋。

どうしたら双方の怪我人を少なくして検挙数を増やせるか、私は知恵を絞る日々だった。(中略)
そこで思いついたのが「逃げると追ってくる」という勝利者の心理を逆用する伏兵戦法だった。
正面の部隊がわざと負けて逃げるふりをして、勝ち誇って追撃してくるゲバ学生たちを、
あらかじめ伏兵が待ち伏せしている地点に誘い込む。
携帯無線の通信で連絡し合い、ころあいをみてドッと側面から挟撃する。
同時に退却していた部隊が反転して浮足立った一番先頭の最も悪質な集団
を包囲し、一網打尽にするという作戦がその一つである。

二代将軍の凡将・徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子の守る上田城攻めで、この手に引っかかって大敗し、関ヶ原の合戦参着が遅れて家康にひどく叱られている。

(中略)

私は警備新戦術研究会で隊長たちを集め、この戦法を披露し、「以後この作戦を『俎(まないた)作戦』と呼称する」と宣言した。

(中略)

あわせて各機動隊に対して退却に際しては、命令一下いっせいに大盾を背中にひっかついで逃げる「亀の甲」態勢をとるよう、訓練を下命した。当時、連日の警備で多くの負傷隊員が出た訳だが、彼らの負傷部位をこまめに統計をとらせてみると、鎖骨、睾丸、小手に脛が多かったが、後退するときに追いすがられて角材、鉄パイプ、投石などにより頸椎と背骨をやられる「後ろ傷」も意外に馬鹿にならない数だった。しかもこれらの傷は後遺症を残す危険の高いことがわかった。そこで頸椎を保護する兜の錣(シコロ)状のプロテクターやアメリカン・フットボール用の睾丸プロテクターなどの装備化を急ぐと同時に、部隊行動として大盾を背負い背中をカバーしながら、組織的に「敵に後ろを見せて」退却する戦法を採用したのである。

(中略)

また「捨伏(すてがまり)」戦法という薩摩勢独特の退却戦術も導入した。
「ステガマリ?一体、何です、それは?」
と、隊長たちは怪訝な顔をする。私はだてに戦記物を読んでいるんじゃない。退却に際して催涙ガス分隊を三段列にわけて部隊後尾に折敷の姿勢で構えさせ、追いすがる暴徒に向けて第一列発射。すぐ走って逃げ、今度は第二列発射。第三列が発射する前にその後方に折敷いた第一列が装填を終えるという、追撃の先鋒を怯ませて本隊を逃がす戦法だ。

――と、機動隊の運用指揮を司る警備一課長だった佐々淳行氏は、相当な戦記マニアで、拳銃マニアであったそうだ。(佐々氏の著作を担当した編集長談)。「半分趣味」状態ともいえる戦国時代の戦技戦術の研究を行ったが、この背景には「70年安保」を控えて、過激化する学生運動で警視庁機動隊の負傷者が続出している事情があったという。

東大安田講堂の攻防戦にいたる全共闘の出発点となる日大闘争の警備実施だけで、紛争がはじまった昭和43年4月から45年6月までの約2年2ヶ月の間に「機動隊員のべ10万1691人がのべ277回出動し、殉職1名、重軽傷384名の損害を受け」たといい、この日大闘争をふくめた全体の警備実施では凄まじい数字が出ている。

「昭和四十三年中の警備実施回数・一千六十八回。検挙者数・五千百六十七名、負傷機動隊員数・四千三十三名。昭和四十四年は、東大安田講堂事件をふくめ、警備実施回数・二千八百六十四回、検挙者数・九千三百四十名、負傷隊員数・二千百九十五名」

という多くの負傷隊員を出しており、佐々氏はこの原因を「ゲバ棒と警棒の白兵戦」にあるとして、「放水の活用と催涙ガス弾の使用によるアウトレンジ戦法」へと警備戦術と装備を転換したという。そして、「戦後警察装備史」的な目線から見れば、この時期の警備実施の反省と教訓から機動隊員の被る「SB8型ヘルメット」の頸椎を守る「垂れ」が付けられ、機動隊のドクトリンともいえる「放水とガスと大盾」が確立されたといえ、高圧放水可能な放水車が整備され、数も少ない上に連日の警備で破損したジュラルミン製の大盾も増強された。「イギリスによる香港暴動鎮圧の教訓」から催涙ガスの使用が大々的に行なわれることとなり、昭和43年の新宿騒擾事件直後でさえ「警視庁に49挺2000発しかなかったガス銃」が増強されるきっかけとなったものが、この時期の警備実施であった――つまり、機動隊を象徴する「紺色の出動服姿の機動隊員」の姿が完成したのが、この昭和43年であったということが「東大落城」の文面から伺える。

しかし、そんな「警察戦国時代」には、機動隊員らは相当、「荒れていた」らしい。



※ 昭和38年(1963)当時の「白兵戦時代」の警備実施の様子。ヘルメットには「垂れ」がまだ取り付けられておらず、盾も旧型



※ 「ゲバ棒から火炎瓶へ」のデモ隊の戦術の変化で、機動隊の戦術も「白兵戦からアウトレンジ」へと変わって行った


ちょっとした騒ぎになった。
まず、「退却」というコンセプトを承知させるのが大変だった。古参の隊長、各級指揮官に拒否反応が起きたのである。

「伝統ある警視庁機動隊に向かって退却せよとは何事だ」「名誉ある頭号(一番の意)第一機動隊は『俎』だの、『総予備』だ、『退却』だなどという任務は絶対お断りだ」‥‥と隊長たちは気色ばむ。戦争体験を持つ旧軍の下士官兵出身者が多かったから、斃れて後已むという旧軍の用兵思想がまだ濃厚に残っていた。「敵に後ろを見せるは‥‥最後の一兵
まで一歩も下がらないというのが機動隊魂だ」などと、りきむのである。


また別の項では、

あの頃は下剋上の戦国時代。荒れた現場の指揮官たちは、卑怯未練な振る舞いがあったり不決断だったりすると、隊員たちから「しっかりしろっ!中隊長っ」などとどやしつけられたり、こづかれたりした。「下からの勤務評定」が厳しい時代だったが、それにしても今日、警視庁本部で機動隊長が上司のネクタイをつかんで怒鳴るなんていう光景は見られない。(中略)いまどきなら懲戒処分間違いなしの石川隊長の言動も「サブ、凄えなあ」ですんだ。

――戦国時代の戦術、戦法を研究し戦術化、防護装備も日本古来の鎧にヒントを得た機動隊。その精神は旧軍出身の元・下士官兵のベテランが精神と根性を注入し、警備計画の立案は「陸士出」をはじめとした元・旧軍将校が行ったという。実際の警備実施の現場では旧軍の「突撃に進め!」の号令に変わり、指揮官が指揮棒を振りおろし、「喚声前へ!」の号令とともに、数十名の機動隊員で投石、火炎瓶の雨の中を数千名の敵陣(デモ隊)めがけて突入。蛮勇を競うなど、まさに「男の花道」たる仕事だったという。



※ 神田神保町を埋め尽くすデモ隊



※ 「あさま山荘」後、凋落した新左翼運動は「三里塚」の成田空港反対闘争でさらに過激化してゆく

そうした戦術的、精神的なものをベースに、催涙ガスの使用などは英国の香港暴動の鎮圧からヒントを得た。さらに「汝殺スナカレ」という大前提のもと基本的に幹部以下はけん銃を携行せず、発砲もしない。警棒の使用も指揮官の命令という戦後日本的な「崇高な理念」のもと、「「忍耐」が美徳であると精神教育を施し、騒擾や暴動を「規制」し、「排除」し、「解散」させ、それでも従わないときは「生け捕り」にする――これが機動隊の基本原則」という、「日本の独創的な警察制度」であると佐々氏は語る。

異論反論は多々あるとはいえ、戦後日本の治安の現場で誇るべきことのひとつは、たとえ反体制派の騒乱であっても、一部例外を除いておなじ日本国民に銃口を向けなかったということは誇るべきことだろう。

「何を好んでそしりを受ける。損はやめろといわれても、信じているんだ太陽を、この世を花にするために、鬼にもなろうぜ機動隊」

学生からは「権力の走狗」と蔑まれ、学生寄りだった多くの市民からも白眼視されたという機動隊。趣味の世界でも自国の「警備警察」ということから、あまり語られることのなかった存在だが、その背景や取り巻くエピソードを調べると、これがなかなか面白く、戦後史的にも非常に興味深い存在だ。


――しかし、佐々淳行氏の著作の多くを読んでも、昭和40年代の高度経済成長に沸く日本のど真ん中で繰り返された連日連夜のデモ隊と機動隊の「戦争」は相当なものだったんだなと、改めて感じる次第。当時の機動隊員をはじめ、警察官の苦労を偲ぶ新春である。  

Posted by アホ支群本部 at 07:00Comments(4)雑記

2012年12月20日

ニューナンブけん銃入れについて

「日本警察」のシンボルともいうべき戦後国産けん銃第一号のニューナンブM60。

少し前まで「制服」の外勤警察官といえばほぼニューナンブであったが、その後に導入されたM37エアウェイト、M360Jサクラ等に更新されて、外勤警察官の腰からぶら下がる姿を見ることも少なくなってきたが、現行の「新制服」への切り替え前はエアウェイトも装備されてはいなかったことから、昭和後期ではニューナンブが数の上では主力けん銃として使用され、チーフス、ミリポリなどと共に使用されていた。

「新制服」切替とともにニューナンブ用けん銃入れもいっせいに新型に更新されたが、旧型は南部十四年式、二十六年式用拳銃嚢などの旧軍拳銃嚢などと共通する、型押しで絞り出されたけん銃のグリップのすべてが隠れる「クラムシェル型」のフルフラップを持っており、「ニューナンブ」と聞いて、真っ先にこのホルスターを連想する「昭和生まれ」も多いかと思う。

しかし、このニューナンブ用の蓋付きけん銃入れも調べ出すときりがなく、便宜上名称をつければ、

・「県警型」 蓋の上端が直線的な意匠
・「警視庁型」 蓋の上端が銃把(グリップ)に沿って斜めの意匠




※ 左 「県警型 一般用」 右 「警視庁型 乗車用」

以上の特徴を持つ「県警型」と、「警視庁型」に分けられ、「警視庁型」は、けん銃のグリップに合わせて蓋自体が斜めに切られ、全体的にけん銃入れを小型、軽量化されている。また「県警型」でも、

「昔から大まかな規格は決まっていても、各県警で微妙に仕様が異なっていて、試作したものを県警が警察庁にお伺いを立てて承認されたものが納入されていた」(元・装備品製造メーカー)

といい、けん銃ケース自体の縫製もミシンか、手縫いかといった違いがあり、特徴的な蓋も丸みを帯びたものから、鋭角な形状のもの。蓋自体が一回り大きいミリポリ用などに近い大きさを持つものなど、細かな仕様や製作したメーカーによる違いが顕著で興味深い。今回は復刻版製作の参考に各方面よりお借りした実物を基に比較。



上記の写真は神奈川県警?の払い下げ品とされる、いわゆる「県警型」のもので、「ニューナンブ用けん銃入れ」として、このタイプを連想する人も多いかと思う。この県警型にも大きく分けて、帯革固定部分がホルスターの袋部分に直接縫い込まれた「一般用」と、自動車警ら隊など、車両に乗降する際に邪魔にならないようにけん銃入れの角度を調整できる「乗車用」が存在する。





※ 上掲の二点とも 左 「県警型乗車用」 右 「県警型一般用」 



※ 大阪府警?払下げとされる「県警型」は他のものよりも大きめの蓋が付けられ、横方向で2cm程度大きい。



※左 「県警型 一般用 (大阪?)」 右 「県警型 一般用 (神奈川?)」 

これらのうち、乗車用はとくに手間がかかっており、角度調整用のロック機能のつけられた金具を帯革取り付け部分と、けん銃入れ本体の間に縫い込んであり、負荷のかかる部分のため、相当強靭な皮革を使っていて、縫い糸も番手の最も太い糸で、職人がひとつひとつ縫い上げている。「外勤警察官用の実用品」として作られてはいるが、「実用品として頑丈であることと同時に、警察官としての威厳を持たせることを要求されていたため、造りもおのずと手間暇のかかる方法となった」(元・装備品製造メーカー)という。蓋の造型、けん銃入れ本体の微妙な曲線など、各所にまさに職人技と呼べる手間暇がかけられ、相当なコストもかけられている。

これらの「蓋付きけん銃ケース」は警察官の服制について規定した公安委員会規則の一部が改正された昭和48年(1973年)6月以降に、改正以前から使われていた「ニューナンブけん銃ケース 蓋なし」に代わって製造されたもので、平成6年(1994年)の現行の服装規則へ変更されるまでの20年余り製造されており、「乗車用」が蓋つきけん銃入れの製造開始当初から存在したのか、途中から導入されたのか、はたまた「一般型」と「乗車型」が平成6年まで並行して使用されたのかなどの詳細は不明だ。

「警視庁は予算規模も大きく「首都を守る」という誇りもあったのか、現場警察官からの装備改善の要望を積極的に聞いており、装備品の改良に熱心だった。旧制服の時代にはほかの県警と異なる警棒吊りやけん銃入れを使っていたし、警察庁の規定とはまったく異なる規格を制定。のちに警察庁が警視庁の型を制式化するなどということもあって、他県警と比べて予算も多く持っていたことも大きいが、装備品はいまも昔も独自のものが多かった」(元・払下げ業者)

その「最たるもの」が、「ニューナンブけん銃入れ (警視庁型)」であったという。



前出の様に「警視庁型」は県警型と異なり、蓋の上部が銃把(グリップ)に合わせて斜めにカットされており、「腰の大砲」を携行する上で、無駄なスペースがなくなった分、小型化されて携行しやすいように改良されている。





※ 左 「県警型」 右 「警視庁型」

県警型と比較してみると、全体的な造りが一般的な県警型よりもタイトになっていて、けん銃ケースの袋部分の全長も短くなり、少しでも小型、軽量化しようとした様子が伺える。けん銃ケース自体も二十六年式拳銃嚢とよく似ており、「警視庁型」の導入されたころには旧日本軍の装備品を製作。戦後は警察向けの装備品を多く納入していたメーカーも健在な頃で、「警視庁型」導入の背景にはこのような事情も関係していたのかもしれない。

しかし、この警視庁型の蓋ひとつとっても、「威厳を持たせる」一環か、非常に手の込んだ成形方法で繊細に型絞りされている。この型を使った「絞り」と呼ばれる成形技術は皮革製造メーカーの腕が如実に出る部分で、蓋自体が湾曲しているため、プレスによる打ち抜きが出来ないため、おのずと職人による手作業での切り出しとなり、コスト的にも、技術的にも高くつく。「現代的なコスト感覚ではなかなか作れないシロモノ。作ることが出来る業者も限られてくる」(皮革業者)という。

そして、改めて見てみると、けん銃入れの蓋の上端ギリギリに銃把(グリップ)が当たるように作られていて、けん銃自体をけん銃入れ本体にとめる「安全止革」の寸法も長年の使用で伸びないようにかなりタイトに作られ、この「ダブルロック」から使い込んだけん銃入れでも、ホルスターのなかでけん銃が暴れてまかり間違っても脱落しないように1mm単位の誤差も出ないようにタイトに作られている。「ニューナンブ 警視庁型」ひとつとっても、当時の物作りが、非常に手の込んだ「実用品離れ」した工芸品的な手順で製作されていたことがうかがえ興味深い。


しかし、かつては警備用品として払い下げ品店で売られた外勤警察官の装備品も、民間での需要のない(←あっても困る)「けん銃入れ」とあって、その多くは払い下げられても、

「警察のホルスターはいい革を使っているので火のつきがいい」(元・払下げ業者)

と、これらの「工芸品」も、風呂屋の薪がわりに下町の風呂屋にトラック満載で運び込まれて、年中、燃やされ、またあるものは埋め立て地の造成で東京湾の処理場に埋められたという。

「払い下げられたホルスターのうち、状態のいい物などのごく一部が映画制作会社や映画小道具のレンタル会社に売られ、撮影用に使われた」(元・払下げ業者)

ここに集まったけん銃入れもこのようにして「生き残った」ものの一部と言えそうだ。

そして、そうやって映画制作会社などに渡ったけん銃入れも長年の使用で損耗し、手間暇のかかる製法上、なかなか複製が作れず、映画関係者も代用品に頭を抱えていると伝え聞く。趣味世界でもいくつもの「ニューナンブ用ホルスターのレプリカ」は作られたが、どれも工程や材質を簡略化した現行初期型を模したもので、旧型けん銃入れが作られなかった背景には「複製を作ろうにもコスト的にも厳しく、作れる職人自体が鬼籍入り」(映像制作会社関係者)このような理由もあったという。

「けん銃入れ」ひとつとっても、その背景には時代が見えてなかなか面白い。しかし、日本刀の時代から、三八式小銃の槓桿(ボルト)後部の彫刻など、「武器としては不要な装飾」に心血を注いだ旧日本軍。そして、戦後の「民主警察」に至るまで「武器という実用品に美を求める」日本人の気風は変わっていないのだなと、感じさせられる「ニューナンブけん銃入れ」調査であった。

  

Posted by アホ支群本部 at 21:37Comments(2)調査研究

2012年12月20日

コルト45口径自動式けん銃入れについて

懸案の「ガバメント用けん銃ケース」複製計画の進捗について。いくつか質問メールもいただいていますので、同時に回答します。



※ 昭和50年代の愛知県警警察官の画像。「蓋なし」のガバメントは紺色のけん銃つりひも(回転式用)で下げており、つり金具とランヤードリングの間には金具を介して取り付けられていたことがわかる。


まず進捗状況について。現在までに皮革製造メーカー、自衛隊用品製造メーカー等5社に製作打診をするも、

「革が特殊な規格で現在では調達不可能」
「革厚4㎜を4枚重ねではミシン縫いが出来ず総手縫い。労力的、工場の能力的に不可能」
「作ったとしても一個5万超えは確実」


と、交渉は不調続きでありましたが、過去に警察けん銃入れの制作を行っていた職人の方を発見、連絡を取ったところ、工場には当時の型等は残っていませんでしたが、実物より採寸し、やはり過去警察向けの装備品の刃型を作っていた業者に型製作をお願いし、製造が可能と回答がありました。またけん銃入れ本体に使う特殊規格の革、部材については現在でも特殊用途向けにごく少量が国産で製造されていることが判明、発注しました。

また新年の1月中に見積もりをとり、試作品を製造。その後に細部打ち合わせを経て、来春に本格製造に着手予定。1ロットが約30個前後となりますので、現時点の予約数12個を除いた20個程度を販売予定です。

「平和堂」自体が、企業ではなく、皆、ほかに本業を持ち、貯金のなかからの自腹持ち出しで企画・製造しますので、予算的にも第2ロット以降の製造は完全未定。予約数に達し次第、再生産というかたちとなりますが、

「コルト45口径自動式のけん銃入れ」

という、あまりにニッチな品かつ、「実物工場で、実物部材を使用し製作した複製品」と、「形だけのレプリカ」ではなく、可能な限り、当時の材料、部材を使用した「復刻」を目指し、品質面での妥協は一切しませんので、価格的にも決して安い物とはならないことから、到底、数が出るとも思えず、1ロット限りの製造となる可能性が濃厚です。

全体での発注数を把握、生産量を確定したいと思いますので、購入希望(予約ではない)の方がいらっしゃいましたら「オーナーよりメッセージ」等でご連絡いただければと思います。

また打ち合わせの席上、工場側より「他のけん銃入れも製造可能」と回答がありましたので、第一弾として「コルト45口径自動式のけん銃入れ(蓋なし)」を製造販売し、資金が回収できれば(自転車操業として)第二弾、第三弾としてニューナンブ、M1917等のけん銃入れをはじめとした往年の「昭和警察装備」を復刻してゆこうと考えています。



※ 群馬県警察史より。

以下、「コルト45口径自動式のけん銃入れ」についての調査研究の経過報告。

「Gun Magazine 2012年11月号」(ユニバーサル出版)誌上にて連載中の「SMALL ARMS ACCESSORIES」第三回では「日本警察拳銃アクセサリー(1949~1954)」として、敗戦から高度経済成長突入前夜の日本警察の装備品の変遷を貴重な実物コレクションの高解像度のカラー写真とともに掲載されており、非常に貴重な資料となっており必見。



このなかでも見開き2ページでガバメント用のけん銃入れが解説されており、興味深い記述がある。

「紹介しているホルスターは一般的な形であるが、ほかにアメリカ軍から供与のM1916と同型の国産ホルスターも存在しており、昭和30年代以降に採用された物を含め、複数のバリエーションがあるといわれている」

とあり、当時の事情を知る方に話を聞くと、

「戦後に米軍の拳銃が警察に供与されることとなって、ホルスターや弾入れも同時に供与されていたようで、ガバメントはじめ、自動式のけん銃入れの払い下げは少数だったが、これらのなかに米軍の使っていたボロボロのこれ(M1916を指さす)が混じっていた。昭和の終わり頃の払い下げ品のなかに見た覚えがある」(元払下げ業者)

「ガバメントのけん銃入れは帯革に直接「ベルト通し」に無理やり取り付けているところもあれば、弾帯から吊るす金具の部分に鳩目をあけたアダプターで「騎兵用」のように帯革からぶら下げているところもあった」(研究家)




※ 「日本警察拳銃アクセサリー(1949~1954)」の記事中に掲載された騒擾事件に出動した大阪府警警察官の写真。「蓋なし」けん銃ケースでガバメントを携行し、予備たま入れは蓋が斜めのものを使っていたことがわかる。昭和27年6月。

「日本警察拳銃アクセサリー(1949~1954)」の記述を裏付ける証言が出てきた。しかし、「M1916と同型の国産ホルスター」を所有している人に会ったことはなく、現物の写真等も確認できないため、謎は深まるが、「M1916および同型の国産ホルスターは蓋の部分を止める際にボタンではなく、革にあけた切れ目をギボシで留める形だったため、穴が広がって「バカ」になりやすく、後年の修理等でボタンまたは、自衛隊の弾納等に使われている「亀の子ホック」に改造されていたようだ」という証言もあり、「M1916型」にも外見上のバリエーションが存在したことが伺え興味深い。が、やはり証言を裏付ける資料、写真等が確認できていないが、情報を総合すると、確認された制服警察官用のコルト45口径自動式けん銃入れには以下の種類が存在したようだ。

・蓋なし (昭和20年代初頭~平成6年頃?)
・蓋あり 自衛隊型 (昭和30年代?~不明)
・M1916および同型品 (昭和20年代初頭~昭和後期?)


ということで、「日本警察拳銃アクセサリー(1949~1954)」の資料として貸し出された実物を採寸用に借り受けたので、実物をもとに解説。

「蓋なし」

全国的に使用されたガバメント用けん銃入れの「定番」とみられるもの。昭和20年代の滋賀県警「MP同乗警察官」、昭和50年代の愛知県警の新人警察官、平成6年の埼玉県警機動隊での使用が確認されている。しかし、次回記事で言及予定のニューナンブ用ともども「大まかな規格は決まっていても、県警ごとに細部仕様は異なった」といい、本部単位で細部仕様は異なっていた可能性がある。



※ 「蓋なし」けん銃入れと、予備たま入れ。予備たま入れはガバメント用弾倉2本を収納する。所有者の手元にやってきた経過を聞き取り、出所を調査したところ、「愛知県に本社があるメーカーの本社倉庫で発見(発掘)されたものを店頭に出したところ、所有者が大興奮で購入していった。うちでは官庁の払い下げを受けたことはなく、昔の社員の私物ではないか」とのことで、愛知県警から払い下げられたものを社員の誰かが購入し、倉庫で忘れ去られたものと考えられる。



※ 刻印部分。「COLT 45-5」の刻印あり。製造所刻印等はない。



※ けん銃入れ本体は払い下げ品でも多く出回った「S&W 45口径 回転式用 (S&W 45 JPNA 1208)」と全体の造作は似ているが、ガバメントの太い銃身を包むため、「袋」部分が太くなっており、重厚な雰囲気を持つ。また現行のけん銃入れと使用する部材等は共通だが、革の厚みは現在よりもかなり厚く、表面処理も異なる。



※ 「予備たま入れ」。非常に手の込んだ製作方法で作られており、革厚も4種類を使い分けている。この形状のものは昭和20年代の米軍けん銃の供与開始直後に導入されたが、他にも通常の45口径回転式の予備たま入れを縦方向に伸ばしたような「ガバメント用予備たま入れ」が存在したとも聞くが詳細は不明。後述する「45口径 けん銃入れ 蓋あり」は自衛隊の「11.4㎜警務隊用」から角度調整金具を省略した同型であり、予備たま入れも自衛隊で使用された「M1916用または米軍型」が存在した可能性が高い。

「蓋付き」



M1916型のフラップを小型化したような自衛隊の「11.4㎜けん銃(ガバメント)」の警務隊用ホルスターの袋形状は同じで、角度調整部を省略したものと考えられる。「蓋なし」と比較すると、革自体の厚みが若干薄くなっており、裏側にも一切の刻印は入っていない。「自衛隊用を警察用に採用した」のか「警察用を自衛隊用に採用」したのかは不明。修復によるものかは不明だが、同型で蓋の固定がスナップボタン、「亀の子ホック」のものも存在するらしい。余談だが自衛隊の「11.4㎜けん銃(ガバメント)のホルスター」も複数の説があり、謎が多い。



※ 米軍用のM1916ホルスター。供与当時は米軍で黒色のもの(1956年(昭和31年)頃よりモデルチェンジ)は採用されておらず、茶色の物を警察では黒く染めて使用していたという。


日本昭和警察の「ガバメント用けん銃入れ」も複数種類が存在していたようだが真相は闇のなか。

「自分が使っていたものはこうなっていた」
「先輩のガバはこのようにぶら下げていた」
「昔の報道写真のなかにこんなものが映っていた」


等、詳細をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教授いただければと思います。

現物が確認され、要望があり次第、次回、復刻の候補に入れてゆこうと考えています。
  

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2012年12月11日

戦後警察けん銃について (資料編/群馬県警察史)

「終戦直後の群馬県警はモーゼルを使っていた!」と、超限定的に話題になっている群馬県警察史のコピーを頂いたので、メモ代わりに抜粋。


本県(群馬県)警察部の保管けん銃は、昭和二十一年二月六日の時点で五三丁であったが、翌二十二年二月には七銃種三一七丁と大幅に増加した。その理由については史料がなく詳細は不明であるが、警察官の個人所有三三丁が含まれていること、銃種が多種にわたっていること、三一七丁のうち二〇五丁が旧陸海軍が使用した一四年式けん銃であることなどから、警察官のけん銃携帯に備え、旧軍隊保管けん銃を警察用に保管転換したものと考えられる。警察部ではこれらのけん銃を各署に配分し、治安情況に応じて夜間警らなどの際に適宜携帯させた。

けん銃配分一覧図の「地区警察署」の項目では、昭和23年3月現在として、

(警察本部)

一四年式 一一丁
九四式 四丁
ブローニング 一丁
コルト 二丁
二六年式 二丁
その他 五丁

計五六丁

群馬県の政経中心であり、一線署であった、前橋、高崎の両署では、

(前橋市警察署)

一四年式 一二丁
九四式 二丁
モーゼル 一丁

計一五丁

(高崎市警察署)

一四年式 一〇丁
九四式 二丁
モーゼル 一丁
計一三丁

群馬県下の規模の大きな都市部の警察署を中心に昭和23年3月当時で「モーゼル」が1~2丁配置されており、本部保管分と合わせた場合、数の上で並び替えれば、

1 一四年式 214丁
2 モーゼル 38丁
3 二六年式 36丁
4 九四式 22丁


十四年式拳銃に次ぐ勢力が「モーゼル」であったことがわかる。当然、詳細な形式の記載はないためC96とその派生バージョンである証明はできないが、戦中に旧軍でも将校の「自弁」を中心にモーゼル拳銃は幅広く使用され、戦時中、福岡県警察部が「独逸モーゼル自動拳銃」として内務大臣に使用認可申請していたことから、群馬県警でも装備?された可能性を排除しきれず、外地の警察ではC96の射撃訓練の様子を写した記録写真も残されている。

戦時中の警察、旧日本軍でC96は使用されていたことから「旧軍けん銃を警察用に転換した」際に紛れ込んだ可能性も考えられ、「警察官の個人所有三三丁」にモーゼルが含まれた可能性も否定できない。昭和12年(1937年)に発売されたモーゼルHScの可能性も排除できず断定はできないが、非常に興味深い。





※ 昭和12年(1937年)に発売されたモーゼルHScの可能性も存在するが、C96の場合、戦時中、外地の警察官が装備しており、「C96がモーゼルを指す」可能は高い?

「(群馬県警のけん銃の数は)昭和二十一年二月六日の時点で五三丁であったが、翌二十二年二月には七銃種三一七丁と大幅に増加(中略) 三一七丁のうち二〇五丁が旧陸海軍が使用した一四年式けん銃であることなどから、警察官のけん銃携帯に備え、旧軍隊保管けん銃を警察用に保管転換したものと考えられる。」



※ 日本軍の拳銃としてもっとも有名な南部十四年式は、戦後も警察をはじめ海上保安庁等で使われた。



※ 各地の警察史を調べると十四年式と並んで二十六年式も多数使用されていたことがわかる。



※ 戦後警察で九四式拳銃の使用も確認されているが、十四年式、二十六年式、九四式以外の日本軍制式拳銃の名称は現在まで資料上では確認出来ていない。

旧軍けん銃の警察用への転換は「史料がなく詳細は不明」とするも、昭和21年から22年の間に行われたことが伺われる。

この部分に関するヒントは昭和21年にGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府がに発した、警察官のけん銃携帯が承認されたという「覚書」のなかにある。

昭和二十一年一月十六日
「日本警察の武装についての覚書」(抄)
(総司令部覚書)

一 最高司令部の得た情報に依ると、日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている由である。司令部より発せられた指令は必要な場合、日本の警察官がけん銃をもって武装することを禁止したことはないし、また、司令部としては何等このような禁止を意図したこともない。

二 日本の警察は日本警察が必要と認めた場合、其の任務を遂行するに際にけん銃を携帯することは何等差支えないことを茲(※ここ)に通告する。但し、日本の警察の使用し得るけん銃の総数は。司令部に依り許可された日本の警察力の総数を越えてはならないことは規定に定められている通りである。

三 現に日本警察の保有している凡ての銃器は、前述の各項に依って認可されたけん銃を除き、一九四六年三月一日又はそれ以前に既定の武装解除方式に従って、米国陸軍占領部隊に引き渡さなければならない。

(警察制度の経過資料編)


という内容の覚書が「警察射殺権に関スル覚書」とともに出された。覚書のなかでは「日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている由である」つまり、「日本政府と警察は武装解除を誤解して、けん銃の携行を「自主規制」しているが、GHQとしてはそのような指示はしておらず、必要とあれば武装しなさい。ただし、警察官定員数を超える装備は禁止。けん銃以外の銃器は武装解除の対象であるので、それぞれ現地の占領軍部隊に差し出しなさい――といっていることとなる。

「旧軍けん銃の警察用への転換」について群馬県警史は「史料がなく詳細は不明」とするも、この覚書が出された昭和21年1月16日から翌22年の間に行われたことが伺われ、この覚書がきっかけとなった可能性が高い。

福島県警史のいう、「昭和21年の時点で内務省警保局警務課長が連合国最高司令部CIS公安課を訪ね「警察官のけん銃携帯使用に関しての覚書」を受領したが、この際に「最高司令部から地方の進駐軍に対し、けん銃携帯許可を指令して頂きたい。各地で警察官のけん銃携帯を問題として取り上げるような所もあり、ぜひ警察官のけん銃携帯使用について徹底して頂けるよう取り扱われたい」と、要望するも、GHQ側は「警察官のけん銃携帯は当然のことであって、ことさらに通達して米軍に周知させる必要はない」と、述べた」という記述とも符合。

「この年(※昭和21年)の五月には連合軍から多量のけん銃が渡された。福岡県でも一〇〇〇丁が交付され、外勤警察官三人に一丁の割合でけん銃を所持するようになった(福岡県警史)」という記述も、時期的にこの覚書がきっかけとなったと考えられ、同時期に行われた「一部の米軍軍用けん銃の貸与、旧軍けん銃の転換」は、この覚書の「解釈」とも考えられる。

つまりGHQのいう「日本政府は武装解除の指令を誤解したため警察官の武装を差控へている」という「自主規制」に言及した覚書の発出の背景には地方進駐の占領部隊と、GHQの間で認識の差があり、地方進駐の米軍部隊でも、片や日本警察にけん銃を支給し、片や日本警察の装備していたけん銃を取り上げるなど対応が地方によってにばらつきがあったことが伺えるのだ。

そして、ようやくGHQの「お墨付き」がついた戦後日本警察の武装であったが、戦時中からの装備けん銃、戦後の米軍けん銃の貸与、旧軍けん銃の転換を行っても、昭和24年の米国貸与開始直前の警察行政監察報告では、「当時のけん銃は「警察官五名に一丁の割合でその様式は百七十数種に及んでいる」 (千葉県警察史)と整備が遅れており、つづいて昭和23年「警察力増強」を目的とした以下の覚書が出されることとなった。

同年(昭和23年)七月十八日警察装備増強のため連合国軍総司令部からの覚書によって、米国製けん銃が日本政府に引き渡されることになり、国家地方警察本部を通じ、逐次各都道府県に配分されることとなった。
本県(群馬県)では、昭和二十四年七月二十三日東京管区本部警務部長から「貸与けん銃の取扱いについて」(東管人発第三六〇号)が通達されたため、同月二十五日各課署長に対し次のとおり「米軍貸与けん銃について」(秘人装発第四六号)をもって、けん銃の受け入れ準備を指示した。


一 新けん銃の配布は、旧けん銃の修理のため貸与されたものであること。
二 紛失その他の事故防止について、その取扱いに注意すること。
三 けん銃射撃講習会を全警察官に対して実施するが、各人三日間一期三〇人宛の方針であるから計画通り受講させること
四 けん銃の貸与は原則として、講習修了者より行うこととする。
五 警察署における措置として
1 旧けん銃の回収準備を行うこと。
2 けん銃貸与簿を作成しておくこと。
3 けん銃の着装は帯革の完成まで、ズボンのバンドの右腰部に着用すること。


(中略)警察官に対するけん銃の個人貸与に伴って、昭和二十五年一月十日、「警察官服制の一部を改正する訓令」(国家地方警察訓第一一号)が定められけん銃、帯革、帯革止が制式化された。


と、「新けん銃は旧けん銃の修理」名目で秘密裏に配備されたこと、帯革などの装備品は「新けん銃」の支給と共に開始されたわけではなく、当初より国内製造されていたことが伺えて興味深い。

また群馬県警察史は「新けん銃」配布前後の様子をつづける。



※ 撮影年月日不詳なるも、「ガバ」には樹脂製グリップ、「ミリポリ」にはグリップアダプターが付けられていたことがわかる。

「けん銃操法指導要員として数人の警察官が、米軍基地に派遣され講習を受けるなどの措置もとられた。こうした準備を経て、同年(24年)九月国家地方警察官へはS&W三八口径回転式、自治体警察官にはコルト四五口径自動式が個人貸与され、警察官のけん銃常時携行が実施された。
けん銃の弾丸はS&Wについては六発装てんして予備たま一二発の一八発、チーフスペシャルは五発装てんして予備たま一〇発の計一五発、コルトは七発装てんして予備たま一四発の計二一発を所持させた。」


昭和24年当時、けん銃に弾は「フルロード」されていたことがわかる。また、上記記述では、「昭和24年の米国貸与けん銃(その後に日本政府へ譲渡)貸与開始当初からチーフスペシャルが含まれていた」というように読めてしまうが、S&W M36チーフスペシャルの販売は翌年の昭和25年(1950年)に米国で開始されていて、昭和24年(1949年)の米国による日本警察へのけん銃貸与とは時間が合わず、その後の規定等から引用した記述が混同され、誤解を受けるような記述になってしまったと考えるのが自然だろう。しかし、群馬県警察史の「けん銃予備たまケース」の記述部分では、

予備たまは、ばらのまま予備たま入れに収納していたが、吾妻地区警察署勤務巡査藤井省三がS&Wについては六発、チーフスペシャル及びコルトデテイクティブ(※原文ママ)については五発を固定して収納できる、次図のよびたまケースを考案した。本県では、昭和二十八年六月二十九日「けん銃予備たまケース使用及び取扱要綱」(群本例規第三八号)を定めている。






※ 「けん銃予備たまケース」の図。



※ 「けん銃予備たまケース」は「予備たま入れ」のなかに挿入する形で使用した。

現代でも「さすまた」を考案し、全国の警察で装備されるきっかけを作った群馬県警の先進性が垣間見えて面白い。この「けん銃予備たまケース」は革製の「予備たま入れ」のなかに使用するもので、「ツメかけ」がつけられた金属板状の「スピードローダー」ともいえる形状を持ったものであったが、この「けん銃予備たまケース」が例規集で定められた昭和28年(1953年)以前からチーフスペシャルは装備していたということになるが、「(戦後の)輸入けん銃」は千葉県警察史によると「昭和三十四年(1959年)度以降、警察官の増員に伴ってけん銃の整備が図られることとなり、当初、増員分のけん銃は輸入に頼っていたものの、昭和三十五年(1960年)度に初めて国産けん銃ニューナンブM60型が採用されたことから、同四十三年(1968年)度以降は一貫して同一銃種による整備が行われた」(千葉県警察史)とあり、この警察官増員に伴うけん銃の輸入開始以前から、「群馬県警ではチーフスペシャル、ディテクティブは存在していた」と読める。ここでいくつかの可能性が浮上する。

・昭和24年(1949年)の「米国貸与」時に軍用拳銃だけでなく、市販拳銃(チーフス1950年発売)も貸与された可能性。その場合、「米国貸与」も一括ではなく、複数回に分かれて行われた?こととなる。
・昭和34年(1959年)以降、チーフスペシャル、ディテクティブが輸入され、輸入後の規定が混同された可能性


以上の「説」が存在することとなる。

群馬県では「自治体警察は38口径回転式、国家警察がコルト45口径自動式」であったと記しており、福島県では「自治体警察は45口径のけん銃を持っていたんです。国警は38口径」(福島県警察史)とあり、自治体によって「米国貸与けん銃」の配布状況は異なっていたようだ。しかし、ここでは「牛殺し」こと「コルト45口径回転式」の記述はなく、群馬県警での配備の状況が見えてこない。



※ 情報を総合すると日本警察の「ミリガバ」には後天的な処理などで複数の表面処理が存在するも、比較的オリジナルの形を廃棄まで残していたと思われる。



※ 「ミリポリ」ことS&W military&police victory model。戦後米国より4インチと5インチが貸与され、一部は少なくとも平成16年まで使用された。

また、群馬県警察史はけん銃使用について、

「昭和二十四年五月二十八日威嚇射撃の禁止、警察官は単なる威嚇の為に構えてはならない、騒擾の鎮圧など部隊行動においては、現場の最高指揮官の指示によって使用するなどを内容とする一部改正(国家地方警察訓第一七号)が行われ」ていたが、「新けん銃」の導入、警察官の「けん銃全員装備」が開始されたことで、翌年には再度規定が変えられたことを記している。「同年(25年)四月十五日「警察官けん銃使用及び取扱規程」(国家地方警察訓第一七号)が制定された。主な改正点は、新たに安全の章が設けられ安全規則並びに取扱上の注意が加えられた(第六条)こと、あらかじめけん銃を取り出し構える場合(第七条)と、けん銃を撃つことのできる場合(第八条)がそれぞれ別に規定されたこと、威かく射撃が禁止(第一一条)されたこと、けん銃及び弾薬が常時携帯常時装てん(第一五条)に改められた」

現在とは異なる世相が透けて見えて興味深い。


――と、このように資料を突き合わせることで、少しだけ垣間見えてきた終戦直後の日本警察のけん銃事情であった。  

Posted by アホ支群本部 at 01:03Comments(4)調査研究

2012年12月08日

戦後警察けん銃について (資料編/「なつかしの徳島」)

「なつかしの徳島」はローカル局の四国放送(JRT)が放送する「おはよう徳島」のなかの一コーナーで、「40年前のこの日、どんなニュースが流れたのか。四国放送の映像ライブラリーから毎日お送りするコーナー」というが、その紹介画像を見るだけでもかなり濃い。

「けん銃射撃競技会」だけで、2008/10/31と2007/8/30の二回放送されていることがわかり、「鉄道公安官の訓練」なる映像まで朝から流している。寝ぼけマナコでこんな映像を見せつけられたら、その日、一日、俄然気合いも入るというものだ。この企画のディレクター。ぜったい「好き者」である。


このうち「拳銃射撃競技会」では、それぞれ昭和43年10月31日、昭和42年8月30日の「徳島県警けん銃射撃競技会」の様子を映しているが、ちょうど昭和43年前後は当時の「新制服」への切り替え時期で、警察官の服制の変化も興味深い。

(余談だが日本のお役所では「拳銃」ではなく拳という字は常用漢字にないので正しくは「けん銃」であったが、近年常用漢字に「拳」が含まれたので、今後、表記は変わって行く?かも)



S&W military&police 5インチと思しき拳銃を構える警察官。気だるげな盛夏半袖シャツが昭和感度高め。角度により断定はできないが、「けん銃つりひも」は紺色の自動式用と思われる。けん銃には不鮮明だが、銃把(グリップ)中央のネジ穴付近にダイヤ状の彫刻があり、右下写真でもグリップにはめ込まれたメダリオンが見えないため、戦後、国内で製造されたニューナンブ用のものと同様のこげ茶色ベークライト様の樹脂製銃把と考えられる。また、グリップアダプターが取り付けられていたことがわかる。



「鉄道公安官の訓練」では、Colt Official Policeと思われるけん銃を構えるベテラン公安官の凄みある目つきがたまらなく昭和感度を高める。この画像で面白いのは、旧制服時代の警察官は盛夏服着用期間中、「帯革」の「負革」を取り外し、帯革のみをズボンのベルトに合わせて装着。「帯革留め」で帯革本体のみを着装していたが、鉄道公安官は盛夏服着用の場合も負革を着装していたことが伺え、興味深い。鉄道公安官のコルトオフィシャルポリスにもグリップアダプターが付いている写真を見たことがあるが、この写真からは判別できず、「けん銃つりひも」の装着も確認できない。また、銃本体のランヤードリングの有無も不明。

余談だが、鉄道公安ではコルトオフィシャルポリスの他にもけん銃が装備されたというが、詳細は全く不明。また鉄道公安官はけん銃は常時携行せず、現金輸送車「マニ車」の警備、皇族方の警衛警備などの際にけん銃を着装。警棒は制服の鉄道公安官でも木製ではなく、特殊警棒を携帯したという。



右上写真ではのほほんとした「駐在さん」然としたおまわりさんが構えるS&W M1917 5.5インチがたまらなく「仕事で持たされてる感」を醸し出してたまらない。

右下写真を確認しても、当時の新制服である「43年制服」に切り替えられた昭和31年12月制定の通称「32年制服」を着用している。主な識別点は胸ポケットフラップと、前合せのボタンの数。当時の写真を確認すると、昭和43年の「43年制服」へのモデルチェンジ後も32制服を着た警察官の写真が見つかり、被服の交換分を個人で破棄せずストックして「私物」としていたのか、「ゆるやかな交換」であったのか不明だが、平成6年制服導入時とは異なり、40年代当時は「完全な切替え」ではなかったようだ。



以前の記事の画像を再掲。こちらの放送は「総天然色」であったことから、S&W M1917の細部が確認でき、銃把は米国貸与時代からのオリジナル?の木製でチェッカリングのないスムースなものであることがわかる。徳島県警でいつの時代まで紺色負い紐が使用されたのか確認できないが、民主警察として日本警察が再興した当初から警視庁は白色つりひもを使用し、皇宮警察は臙脂色のつりひもを使い、43年制服導入を機に、全国的に「白色けん銃つりひも」が導入されてゆくが、福島県警、愛知県警などの一部県警は平成6年の服制改正まで頑なに「紺色つりひも」を使用し続けた。


――しかし、どれだけ探しても「なつかしの徳島」の動画が確認できず残念至極。

ノーカット完全版をぜひともDVD化して欲しい!と、徳島に向かって祈念する今日この頃だが、まず無理だろう。しかし、どんな放送だったのか、気になるところである。  

Posted by アホ支群本部 at 07:00Comments(2)調査研究

2012年12月07日

戦後警察けん銃調査の雑感 2

いろいろ調べてみると、現代日本も相当数の「骨董銃器」が残存していることがわかって興味深い。

「平成16年まではミリタリーポリス回転式けん銃、ブローニング自動式けん銃があった」

「我が県警からコルト回転式が消えたのは平成22年。平成23年になり新たにサクラ回転式、HK P2000自動式が配備」

「ワルサーPPK自動式は相当数が輸入され、現在もシグ230自動式より数が多いのではないか?」

「警視庁では平成10年頃まで米軍おさがりの『45口径回転式』(S&W M1917)を使っていた」

「新制服導入後(平成6年以降)、新制服用のM1917のけん銃ケースが存在した」

「やはり新制服導入後に、婦人警官がカールコードの付いたコルト25を持っている写真がある」

「コルトポケット(32オート)は平成10年頃でもバリバリ使っていた」

「サクラ回転式、HK P2000自動式は評判が悪く、エアウェイトやチーフスを引っ張り出して使っていた」


等、各方面の話を伺い、資料をあたると、日本警察の物持ちの良さと、想像を超えるバリエーション――弾薬の種類だけでも相当な幅があることに驚かされる。



※ 高知県警警察学校。2008年。



※ 低解像度のため詳細は判別できないが複数種類の回転式けん銃がうつっている。

ここで現時点ではひとつの推論でしかないが、自衛隊の場合、小銃は「●●式小銃」と、型式の制式化がなされてネジの径まで仔細に記した厳格な仕様書を設定。量産、配備され、通常、一切の別の選択は許されない。しかし、それでは運用上の柔軟性がもてないことから、近年、導入された「対人狙撃銃」の場合、型式の指定はなく、仕様書で決定されるのは「7.62㎜」の口径などの大まかな規定だけであって、選択に幅を持たせている――ともいえる訳で、警察の場合、けん銃の調達に関しては後者のスタイルととっていたのではないか?とも考えられる。

つまり、「89式小銃は64式小銃の、64式小銃はM1小銃(および99式小銃)の代替」として、それぞれの時代に「新小銃」として従来の小銃が代替され、更新される場合は原則的に中隊等の部隊単位で一斉に装備される。

日本警察の場合、予算にしても国費と県費での調達があって一元化されておらず、部署による選択にもかなりの柔軟性が持たれているようだ。一昔前は「ニューナンブM60」で使用けん銃を統一しようとした痕跡はあるが、そもそものけん銃のバリエーションが多すぎたことや、射撃訓練の機会が少なく、実際の使用例も僅少な日本警察の特殊事情から通常の耐用年数をはるかに超えた配備が可能だったともいえる。そこで、日本警察の場合、「数の上での主力けん銃」であった、

S&W M1917 → ニューナンブM60 → S&W M37エアウェイト

と、「『新けん銃』に更新がなされたように見える」が、どうやら一斉取り替えではなく、現在でも「サクラ回転式」が導入されたとはいえ、県警にもよるが一線署の地域課等でもニューナンブM60、S&W M37エアウェイトが混在していて、さらには制服警官に対しても少数ではあるようだが、SigP230、HkP2000などの配備も行われていることから、どうにも「新けん銃」の導入、配備には一定の規則性がなく、

「予算年度によってそれぞれ調達されたけん銃を損耗交換分として配備」

していると考えられる。当然、現在ではけん銃使用の可能性の高い部署等への優先的な配備はあると考えられるが、現在ではかつてのように「回転式は制服警察官、自動式は私服警察官」という「常識」(←思い込み)も通用しない状態で、日本警察の装備するけん銃の幅の広さ――近年導入され、確認された物だけで、SIG P230、M360Jサクラ、Hk P2000、ベレッタバーテック、S&W M3913 レディースミス、グロックG17(?)と、この一貫性のないラインナップには、戦後混乱期を彷彿とさせるカオス状態と評することも出来る。

そこで総理官邸資料のP21に注目。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/pdf/sankou4_1.pdf。警察庁の「一般警察官用のけん銃の調達」では、「複数銃種の携帯性、撃ち易さ、安定供給可能性、価格等を総合的に検討」「けん銃銃種選定委員会において、銃種を決定」しており、調達では「随意契約により国内にある輸入代理店を通じて調達定価の把握、市場調査、代理店より入手したメーカーからの見積価格により価格の妥当性を確認」とある。が、ここで語られているのはあくまで「一般警察官用」であるのに注意。しかし、競争入札で予算年度による銃種の違いがあるのならわかるが、「選定委員会で決定した銃種を随意契約」であるから、「一般警察官用」ではないところで、いろいろ「大人の事情」があるのであろう。

(余談。当該資料P22 「自衛隊及び各国軍隊の定年年齢」の自衛隊の階級と、米軍階級の対応。とくに将と曹の部分が興味深い)



※ 宮城県警けん銃射撃競技会 2009 http://www.news24.jp/articles/2009/10/06/07145149.html



※ 映像射撃シュミレーターの様子。



※ けん銃射撃競技会の様子。中央の警察官がS&W M3913 レディースミスを使用。



※ 現在は「婦人警官だから小型」という訳でもない。ニューナンブ77㎜銃身を使用。よく見たら前から二人目の男性警察官のけん銃は4インチ銃身。ミリタリーアンドポリスか?



ヘルメットのマークから千葉県警機動隊の銃器対策部隊と思われる警察官。けん銃入れにはSigP230


日本警察の使用けん銃。戦後は戦後で収拾が付かず、現代は現代でアウトラインは見えても、実際の中身は一切がベールのなか。「日本警察装備史」。世にあるミリタリー、銃器研究のなかでも「至難のテーマ」とは本当である。


しかし、ミネベアがS&Wと業務提携を「サクラ」の共同開発?以降、加速させており、豊和はHk――と、そのうち日本警察もM&P、自衛隊はHk416の「ライセンス生産」あたりに手を出しそうな気配である。無念。  

Posted by アホ支群本部 at 21:27Comments(2)雑記

2012年12月04日

戦後警察けん銃について (資料編/福島県警察史)

千葉県警察史につづいて「福島県警察史」を紐解いたメモ。

「福島県警史」では「第三節 けん銃の携帯」の項にて戦後の混乱下の福島県警けん銃事情について、非常に仔細に記述している。とくに当時、「極秘扱い」であったという戦後間もなくのけん銃の装備事情は当時の世相が透けて見えて興味深い。



本県(※ 福島県。昭和21年)に於て現所有銃は、

十四年式拳銃 六挺 実包 一八〇発
二十六年式拳銃 二挺 実包 一〇発
其他回転式異種型拳銃 一六挺 〇発

計二四挺 一九〇発

其の他の回転式異種拳銃一六挺は、弾薬、実包皆無にして、使用不能。
昭和二十一年五月十五日、青森県警察部より 

十四年式拳銃 一〇〇挺 
同弾薬、実包 三〇〇〇発

を借用し、其の内青森県より借用拳銃を同年七月一日左の通り県下各警察署に配布す。


この「福島県警察史」のなかで「南部十四年式拳銃」の正式な部内での名称は「口径8ミリメートル 14年式 自動装てん式」であったという記載があり、興味深い。この「口径8ミリメートル 14年式 自動装てん式」をはじめとした旧軍けん銃その他の装備で始まった戦後福島県警のけん銃装備であったが、福島県警史が出典とした「福岡県警察史」では昭和21年当時のGHQとのやりとりを記述している。

こうして警察官のけん銃携帯は、GHQによって正式に認められたのであるが、各府県とも、これによって直ちにけん銃を警察官吏に携帯させたわけではなかった。もっとも一部の県では地方進駐の占領軍当局から貸与され、これを携帯させたところもあったようである。

「この年(※昭和21年)の五月には連合軍から多量のけん銃が渡された。福岡県でも一〇〇〇丁が交付され、外勤警察官三人に一丁の割合でけん銃を所持するようになった(福岡県警史)」とあるが、本県(※福島県)ではこうした事実はなかった。

昭和21年の時点で内務省警保局警務課長が連合国最高司令部CIS公安課を訪ね「警察官のけん銃携帯使用に関しての覚書」を受領したが、この際に「最高司令部から地方の進駐軍に対し、けん銃携帯許可を指令して頂きたい。各地で警察官のけん銃携帯を問題として取り上げるような所もあり、ぜひ警察官のけん銃携帯使用について徹底して頂けるよう取り扱われたい」と、要望するも、GHQ側は「警察官のけん銃携帯は当然のことであって、ことさらに通達して米軍に周知させる必要はない」と、述べたという。

以上の記述から、昭和24年の「米国支給けん銃」の支給開始以前から、

・内務省時代からの引き継ぎ?けん銃 (十四年式、二十六年式、九四式拳銃等)
・昭和21年に進駐軍から支給された軍用拳銃 (M1911A1等?)

県によって以上の二つの流れがあったことが伺われる。



(※ 1945年頃に滋賀県で撮影とされる「MP同乗警察官」。フラップが斜めになった日本警察独特のM1911A1用の予備弾入れが見える。撮影年が1945年前後とすれば「昭和24年の米国貸与以前から米軍用けん銃が貸与されていた」こととなり、予備弾入れなどの装備も戦後すぐに製作されていたこととなる)

「昭和二四年(一九四九)七月一日に、GHQ公安課長プリアム大佐から、日本政府に覚書が手交されて、日本警察定員一二万五〇〇〇名に対して、けん銃一挺、実包一〇〇発あてが貸与されることとなった。日本政府では、国家地方警察本部装備課長がその責任者として受領し、その他の部品とともに、同年一〇月一日に全国の国警三万人、自警九万五〇〇〇〇人の全員に貸与されることとなった。なお、このとき、従来持っていた旧型けん銃は回収されることとなった」(『山形県警察史』下巻一五三〇ページ)とある。ただ、引用の記述中、国警、自警全員に貸与されることとなったというが、本県(福島県)にあっては自治体警察は国家地方警察よりもかなり遅れて貸与されており、国家地方警察の警察官も全員が一斉に貸与されたわけではなかった。


昭和24年にGHQからの覚書によって警察官の「1人1挺体制」が整備されてゆくこととなるが、「このとき従来持っていた旧型けん銃は回収されることとなった」といい、福島県警史によると装備数の上では1位、2位であった南部十四年式拳銃、二十六年式拳銃、其他回転式異種型拳銃などが回収されたと考えられるが、そこでひとつの謎が生まれる。

米国貸与けん銃のS&W M1917、COLT M1911A1、S&W Military & Policeなどとともに、近年まで使われたCOLT M1903(32オート)、ブローニングM1910などの小型けん銃は昭和24年の米国貸与けん銃の支給以前から装備されていたものとして、この際に回収されていたのか?その場合、保管後に警察官増員の折に再支給されたものなのか?はたまた「米国貸与けん銃」につづき、警察官増員の折に輸入された「輸入けん銃」なのか、一切が不明なままだ。

しかし、ひとつの可能性として「(M1917やM1911A1、S&W Military & Policeといった米国貸与けん銃の支給が開始されて)従来持っていた(十四年式や二十六年式などの)けん銃は回収」されたが、「回収=廃棄」ではなく、千葉県警察史の記述にもあるように、

「昭和三十四年度以降、警察官の増員に伴ってけん銃の整備が図られることとなり、当初、増員分のけん銃は輸入に頼っていたものの、昭和三十五年度に初めて国産けん銃ニューナンブM60型が採用されたことから、同四十三年度以降は一貫して同一銃種による整備が行われた」(千葉県警察史)この米国貸与の開始された昭和24年から昭和34年までの10年間に、一部の機種(比較的多数が装備されていて、改修部品等のストックの充分にあるもの?等)は「回収→保管」されて、使用されたとも考えられるが、福島県警察史も率直に認めるように、当時の資料は少なく、「新けん銃」こと米国貸与けん銃の支給等は極秘に行われたことから詳細を辿ることは困難だ。



(※ 警察白書より「点検を受ける刑事(昭和30年代)」のキャプションのつけられた写真。不鮮明だが、ブローニングM1910ないしコルトM1903と思しきけん銃を装備している)

また、福島県警史は昭和24年当時にGHQより貸与されたけん銃について、

貸与けん銃は、回転式と自動式で、その種類はS&W・Colto・Comma-ndo・Coltoffなどである。

「自治体警察は拳銃の帯用が国家警察より半年くらいおくれていたんですね。国家警察が先にけん銃をもって、自治体警察は警棒ですから、子供がいいピストルを持っているのと同じで、国家警察が拳銃を持っているのをうらやましがって、いつわれわれがけん銃を帯用できるかと思ったものです」(元・郡山市警察長)

「自治体警察は45口径のけん銃を持っていたんです。国警は38口径の小さなものだったんです」(元・県警刑事部長)

これらの記述のなかで「Colto」など明らかな誤植と思われるが、福島県警察史が言わんとした銃種については、推察、要約すれば「貸与されたけん銃は回転式と自動式で、その種類はS&W・Colt・Colt Commando、Colt Official Policeなどで、自治体警察が45口径、国家地方警察が38口径を装備していた」といえるが、やはりここでも「小型オート」についての記述はなく、謎は深まるばかり。


警察庁、各都道府県警察、皇宮警察、鉄道公安局、海上保安庁などの組織、機関の公開資料を突き合わせれば全体の輪郭を辿ることは出来るかと思うが、どうにも先は長い。


(追伸)

各方面より非常に勉強になるメッセージの数々まことにありがとうございます。
不勉強ではありますが、今後もご指導のほどよろしくお願いします!  

Posted by アホ支群本部 at 18:42Comments(0)調査研究

2012年11月23日

戦後警察けん銃調査の雑感

はからずも戦後警察けん銃のけん銃入れ――ガバメントけん銃入れの複製製作の話が持ち上がり、持ち前の好奇心で首を突っ込んだが最後、戦後警察けん銃=もとい、「日本のお役所けん銃」事情を垣間見て、かるく眩暈がしてくる店主です。

前回記事での「証言編」にしても、記事に登場していない方を含め、多くの警察官およびOBの方、関係者の方にお話を伺っても、真相に近づくどころか、「泥沼」の深さと広大さに、深淵を垣間見た気がする今日この頃です。

以下、雑記録。

・ネット上で「平成6年埼玉県警年頭視閲式」の画像を発見。

写真に写る行進中の機動隊員のけん銃入れのはっきり確認できる画像のうち9名中6名が「ニューナンブ 県警型」、1名が「S&W 5インチ 蓋なし」、1名が「COLT 自動式 蓋なし」。指揮官の幹部が旧型けん銃であったことがわかる。

※ 使用許可が下り次第写真公開予定


・「蓋付ニューナンブ用けん銃ケース」にも複数種類がある。

「ニューナンブ用」とされる3インチ(77㎜銃身用)のけん銃ケースには、蓋の上辺が直線の「県警型」、蓋の上辺が斜めになっている「警視庁型」があり、それぞれ帯革取り付け部分と、けん銃収納部が任意に可動する「乗車型」が存在し、主に自動車警ら隊で使われた。

大分類として便宜上区分すると「県警型 (一般用)」、「県警型 (乗車用)」、「警視庁型 (一般用)」、「警視庁型 (乗車用)」が存在する。



※ 左 県警型乗車用 右 県警型一般用



※ 左 県警型乗車用 右 県警型一般用。乗車用は帯革取り付け部分が可動する


・「県警型」でも西日本のものと、東日本のもので蓋を成形する型の形が違う。

実物を比較して判明。東日本のものはフラップ全体が丸みを帯びており、柔らかい雰囲気を持つが、西日本から放出されたとされるものを較べると、西日本のものは蓋に型の折り曲げ線がシャープに入り、微妙に裁断、ステッチングが異なる。納入メーカーによる違いか?全体の裁断も微妙に異なり、刃型自体が異なっている模様。

また東日本のものには本体裏側に「ニューナンブ」の刻印があるが、西日本のものには刻印がない。しかし、この刻印に関しては製造メーカーや年次による違いの可能性もあり。


・古本市で見かけた警察本に平成8年時点で「45口径の弾はクリップで保持」「ミリタリーポリス」「回転式6発の場合は~」の文字を確認。

関東のK県警。


・旧型制服でも警視庁型と県警型で異なる。

警視庁型は毛羽立ちにくい、オンスの高いウール地で作られており目が詰まっている。小規模県警のものは柔らかいウール生地で作られている。


・機動隊の出動服には冬用と夏用があり、ノーアイロンも存在している。

M商店製のレプリカに似た化繊混紡生地のものがノーアイロン?といわれている模様。火炎瓶の使用が想定されるような状況では綿で出来た出動服で「統制」し、「恒常勤務」でノーアイロン等が使われたとの証言。



※ 三里塚で警備にあたる空港警備隊。

「出動服は通常警備ではジャストサイズで、防護装備完全着装での危険な警備ではワンサイズ上で着ます」
「万が一火炎瓶の炎が燃え移った際、すぐ脱げるようにというのと、大盾振り回し、出動服のなかに防護衣を着込むので動きやすいように大き目のサイズを着ます。自衛隊の戦闘服で3Aでジャストなら、2Bを着る感じですね」


・けん銃つりひも紺色について

福島県警、茨城県警?などでは平成に入ってから新制服に更新されるまで使われていた。


・戦後すぐに支給された装備は黒く染め直していた。

戦後すぐ旧軍けん銃などが貸与(年数不明)された際に、米軍のツーバックルブーツなどとともに、チノシャツ、チノパンなども支給されたが、チノシャツ、チノパンは制服としてそのまま着用したが、ツーバックルブーツ、南部14年式のけん銃入れ、つりひもなどは黒か濃紺に染め直して使用(原田弘著「MPのジープから見た占領下の東京―同乗警察官の観察記 」)。また、同時にM43フィールドジャケット等も支給されており、紺色に染め直したものが存在し、出動服の原型になった?らしい。


・「防弾ヘルメット」には90式テッパチ、M1、通称M2、66式鉄帽が入り混じっている。

戦時中から「防空警備用」として鉄帽は配備されており、これが戦後も継続して使用されたのか、米国貸与で旧軍の接収品が再配備されたのかは不明。戦後の改修でM1のライナーが無理やりつけられているものや、オリジナルに似たクッションパッドのつけられたハンモックで改修されている物があり、戦時中の規定では旭日章は正面リベット穴に取り付けることとなっているが、戦後は白や黄色のペンキで旭日章を塗っていたものも多く、学生運動初期の機動隊員の着用例もあり、あさま山荘事件では長野県機が使用している。



※ あさま山荘事件で警備にあたる長野県機。90鉄帽?同型品を着用。足元はゴム長靴(!)



※ あさま山荘事件での機動隊員。防弾ヘルメット(M1型?)を使用している。またあさま山荘事件の記録映像では、M1ヘルメット同型品の防弾鉄帽にも耳あてナシ、耳あてアリが確認でき、顎紐が紐状、M1様のチンストラップなどの混在が確認できる。

その後の労働運動→学生運動の激化で鉄帽の需要が高まり、M1ヘルメットを「米軍の放出品店で県警本部の人間が買い付けていた」といい、警察は購入後、後頭部に金具を増設。「三点顎紐」として使用していたが、顎紐は相変わらずの旧軍由来の「タダの紐」。これはM2、66式も同じだった。

またライナーヘルメットは国産のものが存在し、米軍にも納入していた。耳あてがあったりなかったり、仕様は様々。SB-8の防石面を分厚くした防弾面のつけられたM1ないし66式は現在も使用されており、警視庁では90式テッパチでさえ平成10年(!)頃まで使用され、F県警の倉庫では数年前まで確認されている。近年は88式鉄帽や海外製のものに更新されつつあるが、「防弾ヘルメット事情」は「けん銃事情」と並んで全体像をつかむことは相当に難しそうだ。


※ メッセージを頂きましたN県?の「PM」さんへ。メッセージに返信しようとしたのですが、メールアドレスの間違いで返信できませんでした。お手数ですが、「オーナーよりメッセージ」送信の際の送信フォームにアドレスを記載の上、再送信して頂けますと幸いです。

追伸 魂の打ち震えるメッセージでした。今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!
  

Posted by アホ支群本部 at 15:26Comments(5)雑記

2012年11月19日

戦後警察けん銃について (証言編)

戦後日本警察のけん銃事情について。各方面からの聞き取りをメモ書き。

【① K視庁警察官】

・M1917について

「K視庁では平成に入ってからも使われていた。主に機動隊と、交通課の警察官など、普段けん銃を携帯しない部署の人間が使っていた。自分も平成初期に交通課勤務の際に渡されていた。非常に大きく使い勝手は悪い。ハーフムーンクリップだけでなく、フルムーンクリップもあった。けん銃入れは白色のものではなく自ら隊のお下がりの黒色の銃把が見えるタイプを使っていた。機動隊は昭和後期は昔ながらの可動しないものを使っていたが、これも「自ら」のお下がりだと思うが、平成に入ってからは機動隊も乗車時に可動して邪魔にならない『乗車用』でM1917をぶら下げていた」

・M1917のグリップアダプターについて

「K視庁のM1917にはゴム製のグリップアダプターが付けられていた。また、グリップは木製のものではなく、メダリオンのないチェッカリングの入った茶色い樹脂製のグリップが付けられていて、オリジナルよりも大きく、親指がグリップに乗るような縦方向に延長されたグリップが付けられていた。ハドソン?だかのモデルガンにそっくりなグリップがついているのを見たことがある」

・M10について

「M10は平成に入ってからも普段けん銃を携行しない課長や署長用として使われていた。ニューナンブの3インチよりもミリポリの4インチの方が見栄えがいいし、けん銃入れも大きくてサマになる」

・ガバメントについて

「平成に入ってからも使われていたM1917に比べてガバメントの方が先に使用されなくなったようだ。ブルーイングされていたシリーズ70?(※かつての月刊GUN誌の記事に「病院で一緒になった警察署長の腰のガバメントのブルーイングが目に眩しかった」という記事から「シリーズ70輸入説」があった)あれは米国から支給された『ミリガバ』の再処理だと思う。日頃けん銃を携行している外勤警官はけん銃の手入れをする暇などなく、下手に手入れなんてしようものなら銃刀法の『銃を弄ぶ』ということにもなりかねないから、保管庫で渡されて、戻してと、毎日繰り返すだけだから、外勤警察官のけん銃の状態は思いのほか悪い。すぐ錆が浮く。オーバーホールの際に表面の再処理を行うんだが、ニューナンブにしても再処理の関係でブルーイング、黒染め、パーカーライズといろいろあって、『青いガバ』もこれと同じだと思う」

・コルトポケット(32オート)について

「平成の10年代まで婦人警官や刑事が使っていたはずだ」

(ガバメントやコルトポケットなどの自動式拳銃は部品点数が多く、製造から時間が経ち交換部品の入手性などから早く消えたとも考えられる。安全管理上もガバメントやコルトポケットの場合、「安全ゴム」が使用できないなどの理由もあった?)



※ コルト ディテクティブ

・コルト38口径(回転式)について

「いまでも射撃訓練でいろんな部署の人間が揃って、横一列に数十人が並んで射撃するわけだ。ニューナンブなんかとコルトはシリンダーの回転方向が違うから訓練の際に『コルトの人は手を挙げてください』と、指示が飛ぶと、いまでも数十人中の3人くらいは私服が手を挙げる。どれも2インチだ」

(コルトディテクティブと、派生モデルのコブラは外見が酷似しており、どちらかは不明)

・ランヤードリングのアルミ?円盤について

「あれはうちでは保管中のけん銃に付けられていた。『この銃は弾が入っていませんよ』という表示だったはず」



(※ 平成初期の大阪府警の通常点検の様子。手前はバレルシェラウドの形状等からコルトディテクティブの後継機種であるコルトコブラと考えられる。組事務所への「ガサ」の為、防弾チョッキを着用。ランヤードリングには金属製の円盤が確認できる)


【② N県警OB】

・いままで使用したけん銃について

「警察官を拝命して所轄に配属された昭和50年代初頭には38口径の6発入るコルトを下げていた。いまでも思い出すな。交番勤務だったときに、いまじゃ有名な拉致事件の被害者がいなくなって、当初は誘拐事件として捜査した。38口径ぶら下げて警丈もって『山狩り』したな。蓋のないけん銃入れで下げてたが、あれ、銃が汚れるんだな。雨なんか降ったら錆びる訳だ。警備に行ってからも4インチの6発のコルトコマンドを使ってたな。滅多にぶら下げることはなかったけど、『コリ●ン●ート』の警報が出て、工●船の潜脱する海岸で張るわけだ。場所なんか決まってるから、だいたい当たる。沖で発光信号が光るだろ?拳銃握りしめて海岸で連中を待ったこともあったな。SPになってからはコルトポケットを使ってた。年季もんだぞ。けれど小型で名前の通り、スーツのポケットにも入るし、反動も小さい。わるくないけん銃だった。コルトポケットはうちの県警では平成10年くらいまでは使ってたはずだ。ちなみに警衛警備でK視庁のSPが出張ってくるときにけん銃を見たら、連中はチーフスペシャルの2インチを使ってたな」



※ コルト コマンド



※ コルト ポリスポジティブ

(コルトコマンドはコルトポリスポジティブのパーカー処理され、各部の工作を簡易化したものであり、外見は酷似。コマンドは米軍部隊向けに製造されたけん銃であり、米国貸与けん銃のひとつか?)

・45口径について

「当時、N署(※ 当地の1線署)でも昭和50年代まで結構45口径はあったな。回転式と自動式があったが、所轄の外勤でも自動式をぶら下げてる奴も結構いた。刑事の間でも45口径は重いけど、人気があってね。当時、科警研だかが調べたんだよ。俺たちがけん銃を使うような局面っていうのは、銃撃戦じゃないんだ。ヤー公とかがポン刀で斬りかかってきたとするだろ?そうなった時の交戦距離なんて言うのはほんの数メートルなわけだ。38口径で『ババン!』と撃って当たったとしても、38口径だと相手は倒れず、こっちも一太刀喰らっちまうわけだ。けれど、45口径なんて言うのは一発当たれば大の大人も吹っ飛ぶ。『いざというときは45口径』っていう風潮はあったよな。ま、滅多に使うことはないんだけど」

(歴史は繰り返すということか?どこかで聞いた100年以上前のフィリピンのような話だ)



※ コルト 45口径 自動式 (M1911A1)



※ コルト 45口径 回転式 (M1917)

・外勤が「一発でぶっ倒れる45口径」で、SPがコルトポケットですか?(笑)

「言われてみれば確かに逆だよな(笑)」

・ニューナンブについて

「ナンブがくるまで結構時間がかかった。昭和50年代でいったら、うちの署なんて何丁もなかったんじゃない?ほとんどが銃身の長い(※4インチのことをいってる雰囲気)38口径か、45口径だったもんな。変わったところではマスターピースなんていうのもあった。たしかスミスアンドウエッソンだ」



※ S&W M15 マスターピース?詳細は不明

・けん銃入れについて

45口径が多かったころはグリップ丸見えのけん銃入れでぶら下げてたけど、途中で「雨でけん銃が錆びる」っていうんで、蓋付になった。


【③ F県警警察官】

・いままで使用したけん銃について

「エアウェイト、P230は触ったこともなく、初任科からいまのいままで一貫してニューナンブの3インチです。機関けん銃も触りましたが、けん銃はニューナンブだけですね。ゴールデンベアは見ただけです。警察学校にも平成10年代後半に45口径などはなかったですね」

・ニューナンブ以外のけん銃について

「初任科の時に教官から『校長の銃はでっかいぞ』と見せられたのがこれ(※M10 4インチ)でしたね。いまはマル機ですが、知る限りうちの部隊は全員がニューナンブの3インチですね。ちなみに通常の警備で機動隊員はけん銃は携行しません。常時携行はC県の空●隊くらいです」



(S&W M10 4インチ)

・ランヤードリングのアルミ?円盤について

「あれはF県警では勤務中もぶら下がっていたと思いますね。たしか貸与者の氏名が書かれていたと思います」


――上記以外の人間に話を聞いても、鉄道公安官が使用していたコルトオフィシャルポリスの名前は現場警察官からは出ず、いきおい飛び出したコマンド?マスターピース?21世紀も10年以上経って32オート??


聞けば聞くほどに泥沼化する「戦後日本のお役所けん銃史」であるが、終戦直後~昭和20年代はカオスすぎてまったく収拾がつかないので、昭和後期まで使われていたけん銃の主なものについて概要を記すと、

・S&W M1917 / COLT M1917

かなりの数が米国から譲渡されたと考えられ昭和後期ではニューナンブに次ぐ量であったと模様。警視庁でも長年使われ、平成期に入ってから廃棄処分されたものと考えられる。最後期はグリップアダプターに、樹脂製銃把であった。「廃棄のホルスターの量も圧倒的に数が多かった。多すぎて銭湯の薪として燃やしていた」(元払下げ業者)。また、COLT M1917も存在したが、数は少なかったという。

・COLT M1911 および 各社M1911A1 

M1917とともに米国より貸与されたが、全体の数としては少数で「射撃訓練で見かけると物珍しさから話題になった」と言い、県警ごとによるばらつきはあったとしても、元払下げ業者も「ガバ用のけん銃入れはごく少数だったし、けん銃つりひものオート用自体、すごく数が少なかった」といい、数は決して多くなかったと考えられる。「あさま山荘事件」では機動隊が使用。コルト以外のM1911A1の目撃情報もあり。

※ (追記) 平成5年埼玉県警年頭視閲式での装備を確認。新制服導入後も群馬県警での使用を確認。

・S&W Military&Police 

通称「ビクトリーモデル」。M1917に次ぐ量を米国から貸与、その後に譲渡されたと考えられ、放出されたけん銃ケースを見ても4インチ、5インチがともに装備されていたことがわかる。「けん銃入れの蓋付化」が行われた昭和48年以降に製造されたけん銃入れも多く存在し、平成20年代(!)でも使われていた痕跡がある。

・S&W Chief Specialシリーズ

戦後の警官増員時に行われたけん銃の整備で輸入された。制服警察官は3インチを、私服警察官が2インチを使用していた模様。3インチはスクエアバッドの目撃例が多く、現在も一部の交機隊などで使用されている模様。

・S&W M10シリーズ

戦後の警官増員時に行われたけん銃の整備で輸入された模様。現在でも一部で使用中。M15「コンバットマスターピース」、M13「FBIモデル」を使用していたとの情報もあり。

・COLT Detective、POLICE POSITIVEシリーズ

ディテクティブ系が米国貸与で支給されたのか、戦後の輸入なのかは不明。しかし、Detectiveは1927年に発売されており、姉妹モデルであるポリスポジティブなどとともに米国貸与けん銃の可能性大。COBRAは1950年の発売であり、輸入と考えられる。近年、SIG P230等に更新されるも、現在もDetective(2インチ)シリーズは私服捜査員が使用中。コマンドなどのPOLICE POSITIVE(4インチ)シリーズはDetectiveシリーズよりも先に廃棄処分となったものと考えられる。またかつての鉄道公安官はPOLICE POSITIVEと外観上酷似したコルトオフィシャルポリスを装備しており、国鉄の分割民営化で鉄道公安官制度は警察に吸収されたことでコルトオフィシャルポリスも警察に引き継がれたと考えられるが詳細不明。

・COLT M1908  (32AUTO)

1949年(昭和24)7月15日付のGHQによる指示による米国からの貸与けん銃なのか、それ以前の支給品なのかが不明。COLT 32AUTOとともにFN ブローニングM1910、コルトポケット(25オート)などの自動拳銃も装備されたが、戦前の警察/旧日本軍が使用→敗戦で接収→GHQから再貸与なのか、米国内で使用したものを貸与したのか、はたまたその両方なのかが不明。「警察史」などの資料では昭和40年代の刑事が持っている写真が複数見つかる。SPを含む私服捜査員が多数使用していた模様。また一部の婦警、交通係も持っていたとの証言もあり。近年、SIG P230等に更新された模様。

・FN M1910シリーズ

「32オート」と同じく、警視庁をはじめ戦時中?から使用されており、1949年(昭和24)7月15日付のGHQによる指示による米国からのけん銃が貸与なのか、それ以前に旧軍接収けん銃の南部十四年式、九四式、二十六年式けん銃などと共に支給品されたものなのかが不明。近年、SIG P230等に更新された模様。

・コルトポケット (25AUTO)

こちらも昭和後期から平成10年ごろ?まで婦人警察官などの使用が確認されているが、戦前の警察/旧日本軍が使用→敗戦で接収→GHQから再貸与なのか、米国内で使用したものを貸与したのか、はたまたその両方なのか不明。


――「戦後日本警察」。実は相当のカオスである。  

Posted by アホ支群本部 at 06:15Comments(2)調査研究

2012年11月18日

戦後警察けん銃について (資料編/千葉県警察史)

現在構想中の昭和時代の警察旧型けん銃入れ(ケース。ホルスター)製作についての情報収集について。

マルシンの「ポリスリボルバー」や「S&W 45口径 回転式」ことS&W M1917などが発売され、にわかに注目の集まっている旧警察(※記事では平成6年の現行制服への改正以前のものをさす)型の「けん銃入れ」(けん銃ケース、ホルスター)の制作について各方面より打診が来ており、「昭和期の警察けん銃」について当方で調べた部分について公開。


現在の制服が制定される以前の警察官用けん銃入れなどの装備品は以前は払い下げ品店などで比較的容易に出来たものも、払い下げ品店での在庫も枯渇。そもそも払い下げ品を扱っていた作業服店もチェーン店が各地を席巻し、廃業が相次ぐなどの理由から年々入手が難しくなった――もともと装備数の少なかった「ガバメント」等のけん銃入れの入手はほぼ不可能。

そして、M1917、M1911A1をはじめとする「ガバメント」、チーフス、M10などに多く見られた「蓋なしけん銃入れ」についても、公安委員会規則の一部が改正される昭和48年6月以前に作られた物であり、少なくとも製造から40年を経たことでいくら頑丈な革を使用して製作されたものとはいえ、警察官個人に貸与され、使用された物が払い下げられていたため、長年の酷使で革自体も劣化。状態の良い物を見つけることは至難。

自身のメモ代わりに簡単に概要を示すと、日本の警察けん銃の歴史は、戦後に始まったといえる。



※ 昭和26年当時の警視庁警察官。通称「21年制服」当時の規定で「たま入れ」の蓋は下向き、GHQから支給された「バックルブーツ」は黒く染めていたことがわかる。この時代からの伝統で現在も機動隊をはじめとした警察官の履く警備靴は「バックルブーツ」スタイルが多い。また警棒は「警視庁型」のこげ茶になる以前のニス塗であることがわかる。

というのも、終戦直後まで警察官はサーベルを佩刀していたことから、それまでけん銃の貸与は現在の銃器対策部隊に相当する部署などのごく一部への配備であり、現在のように「1人1丁」となるのは、昭和24年(1949年)7月15日付のGHQによる指示によって米国からのけん銃が貸与されたことから本格的な整備が開始。

もともと終戦までに旧警察が装備していたけん銃と、この米国貸与けん銃の割合は、昭和29年7月の現行警察法の施行当時で、

「全国の警察官が保有するけん銃は十二万四千二十八丁で、このうち八十七・三パーセントが(米国)貸与けん銃であったが、これらは昭和三十年六月一日付をもって米国から我が国に譲渡された」(千葉県警察史)

「けん銃は、警察官の職務執行上の必要な武器として、大正十二年(一九二三)勅令第四百五十号によってけん銃の携帯が許されて以降、各庁府県ごとに整備されていったが、その数は昭和五年(一九三〇)十二月現在、全国で千三百二十二丁、本県(※千葉県)では二十五丁がそれぞれ装備されていた。(中略)当時、大型又は小型の「コルト」「ブローニング」に限定されていたが、昭和七年九月一日(中略)警保局長通達が発せられて以降、この種の制限は撤廃されることとなった」(千葉県警察史)

つまり、戦前から日本警察で使用されていたなかでも多く装備されていたというブローニングM1910、コルト32オートなどに加えて、戦後、「警察官全員に支給するため」米国貸与けん銃が装備される。この以前の終戦直後の混乱期に元警視庁警察官の回顧録では、「当初、GHQより支給されたけん銃は南部14年式などの旧軍から接収したけん銃を装備するも、数が少なく、皆で持ち回りで装備した」(原田弘著「ある警察官の昭和世相史」)旨の記載があり、これらの旧軍けん銃をはじめとした接収品の装備以降に「警察官全員へのけん銃装備」の方針が決定。米国貸与は行われた。詳細な支給時期は不明であるが、

S&W M1917 (45口径 回転式)
COLT M1917 (45口径 回転式)
COLT M1911 (45口径 自動式)
 ※M1917装備後に支給されたとの証言もあり

等が支給。

この米国貸与が行われる直前の昭和24年の「警察行政監察報告」には当時の世相が伺える。

「当時のけん銃は「警察官五名に一丁の割合でその様式は百七十数種に及んでいる」と報告(中略)本県(※千葉県)における同年十二月末のけん銃保有状況は、国家地方警察七百四十三丁、自治体警察三百七十八丁で警察官三人に一丁の割合であった」(千葉県警察史)




※ 昭和27年(1952)5月の「血のメーデー事件」で皇居外苑で45口径回転式と思しきけん銃を構える警察官。このメーデーでは暴徒化したデモ隊に警官隊が発砲。デモ隊に死傷者が発生する。また写真の警察官は出動服が制定される以前のため、出動時も制服に鉄帽姿



※ 昭和31年当時の警視庁警察官。現在は装備されていない「たま入れ」が見える。また全国でバラバラであった警察官制服の「斉一化」を目的に制定された31年12月制定の通称「32年制服」以前から、警視庁では白色けん銃つりひもが使われていたことがわかる



※ 学生運動が隆盛し、「銃による革命」を標榜した極左暴力集団によるけん銃強奪、強奪未遂事件が多発した影響からか昭和48年以降、警察官のけん銃入れは蓋付となる。



※ 昭和44年(1969)徳島県警の射撃大会の模様。けん銃はグリップアダプターの付いた「S&W M1917」。また通称「43年制服」の改正以前の標準であった紺色の「けん銃つりひも」が使用されている。千葉県警察史によれば千葉県警の場合、昭和48年の若潮国体警衛警備まで紺色つりひもが使用され、県警によっては平成6年の現行制服への改正まで使われた。

そして、出典とした千葉県警察史は警察官の増員とけん銃整備について続ける。

「昭和三十四年度以降、警察官の増員に伴ってけん銃の整備が図られることとなり、当初、増員分のけん銃は輸入に頼っていたものの、昭和三十五年度に初めて国産けん銃ニューナンブM60型が採用されたことから、同四十三年度以降は一貫して同一銃種による整備が行われた」

ここで興味深いのは、ニューナンブM60型が昭和35年(1960年)に採用された後も、昭和43年(1968年)までの8年間がニューナンブと共にけん銃の輸入が行われていたことを記す。

現時点で判明している情報を総合すれば、

(接収品を再支給けん銃) 戦前~

ブローニングM1910、コルトポケット32オート、南部十四年式、九四式、二十六年式等

(米国貸与けん銃) 昭和24年~

(45口径) S&W M1917、COLT M1917、COLT M1911、各社M1911A1
(38口径) S&W M&P(※ビクトリーモデル) 4inc 、5inc、COLT Police Positive、コマンド、オフィシャルポリス等

(米国輸入けん銃) 昭和34年~43年



※ 警視庁HPより。けん銃強奪事件の手配写真より。スクエアバッドのチーフス3incに国産と思しきベークライト調の樹脂製銃把がつけられている

S&W M36 (1950年発売。ラウンドバッド、スクエアバッドともに輸入。現在も現役)
M10 (1956年。4incが主?現在も現役)
COLT  Detective Special、COBRA (1950年発売。私服捜査員用?現在も現役)

(国産けん銃)



※ 「ニューナンブ」には外見上、通称「前期型/後期型」が存在し、納入年次や再処理などで表面処理にも複数のパターンが存在する。

ニューナンブM60 (昭和35年(1960年)採用。製造終了。現役)


――と、調べれば調べるほど奥が深すぎ、泥沼化する昭和時代の警察けん銃事情の調査。

千葉県警察史の「百七十数種に及んでいる」という記述ひとつをとっても、もはや追跡は不可能と言わざるを得ない。そして、国内の法執行機関ということで、現在よりも秘密主義が色濃く、いまほど情報公開も進んでいなかった時代の日本。国民レベルでも銃器アレルギーも強く、さらにいえば警察自身が銃をタブー視したなどの影響か、情報は非常に限定的だ。さらに自衛隊物にせよ、警察物にせよ「戦後日本の機関」――とくに高度経済成長期の体系的な研究はなされておらず、全貌を知ることはことのほか難しいとの印象。

という訳で、今回は「資料編」。次回は収集した一次情報について分析予定→実物の比較→製造方法と手段について。複製製作実施の可否について判定します。


関係各位のご指導、ご鞭撻お待ちしております。


平和堂 代表  

Posted by アホ支群本部 at 05:30Comments(2)調査研究

2012年11月18日

市川広小路 平和堂

千葉界隈でささやかに活動を続けておりました平和堂でありますが、この度、各方面よりの要望を受けまして、情報のターミナルとなるブログを開設する運びとなりました。

自己紹介をかねましてご説明いたしますと、「市川広小路 平和堂」は大正年間、千葉県東葛郡市川町の市川警察署そばにて創業。佐倉と並ぶ「軍都」であった市川で、野戦重砲兵連隊をはじめ多くの部隊が駐屯していた国府台の坂下に位置していたことから、先々代は本業の日用品販売とともに軍納めの商いを行い、時局が逼迫するなか、たいそう繁盛していたと言います。



※ 戦前の市川町。千葉街道沿いに平和堂は創業。増強つづく国府台連隊と共に栄える

しかし、大東亜戦争中の市川空襲にて被災。そのまま終戦を迎え、終戦後解体された国府台連隊と共に平和堂もその歴史を閉じましたが、半世紀の眠りを経て、平成20年、四代目により再興されました。



※ 大東亜戦争末期の市川空襲にて被災。取引先(国府台連隊)と共に地図上から消える。

現在も多くの自衛隊部隊が駐屯、陸海空三自衛隊の集まる千葉の地で、主に自衛隊員に対する装備品の製造販売。いわゆるPX品の改良、セミオーダーの製作などと並行して、コレクター向けに現在は使用されていない自衛隊、警察等の旧型装備品の複製品製作などを行っています。

「無い物は作ればいい」

以上を座右の銘として、多くの方々のご協力で平和堂は運営されています。

しかし、「カタチだけ作ればいい」というものではなく、やるからには徹底しなければなりません。

そこで平和堂では、製造メーカーをはじめとして、旧警察の装備品製造を行っていた工房や、小道具の制作メーカー、助言と共に多くの注文を頂きました隊員さん、そしてコレクターの皆さんなど、ご縁を頂きました各位のご協力、ご支援を頂き活動を続けることが出来ました。

今後も各方面より一層のご指導、ご鞭撻を賜れますと幸いです。


市川広小路 平和堂
  

Posted by アホ支群本部 at 02:03Comments(0)紹介

2012年11月01日

ネオ零度シティー 2012

アホガン国から連合軍の警戒網をすり抜け、富士山方面へ逃走した「カリスマゲリラ」ことカリスマとカツが、

「ちばらぎ県零度市(旧・千葉県印西市。レイド)に潜伏中」

との情報を得て、急行!

かつての「ちばらぎ県警東葛署員殺傷事件」で「メンツをつぶされた」ちばらぎ県警は早々に管区機動隊も投入。



カリスマらの検挙を目指すが、零度市のどこにも姿は見当たらない。

しかし、「すーぱーあーすくえいと」で破壊され、荒廃した町に「マルG」(ヤー公)、「赤ヘル」(過激派)が跳梁跋扈していると耳にしていたレイドシティー。


まさにカオス。


けん銃を脇腹にさした復員兵や三●人らがヒロポン(リポD)を白昼堂々、闇市で売りさばく!



メイド喫茶が公然ワイセツ状態で「青空営業」。「陰核派」と大書きされた赤ヘルが革命!を叫んだ瞬間、機動隊が取り囲む!

「君ね!存在自体がどうにもワイセツなの。11時30分、公然ワイセツでゲンコーハンね!!」

と、「数の暴力(芸術)」で本署に連行される「陰核派」。

街中を警らすれば当然の如く、絡んでくる市民!この街では市民のけん銃携行が許可されており、届け出のされていない「モグリ銃」も多い。

芸術活動にも気合いが入――気が抜けない。





「有力組織の資金源になっている」という闇市。実態解明を行えば「新宿 にこにこ市場」は、新宿、所沢、ちばらぎを「シマ」として押える「新宿ブラミー 一家」がシノギとして経営する「フロント企業」と判明。

「おぉ!いい眺めだな!」




と、マル機たちのアツい視線を一手に集めたメイドは――のちに多数の女装が紛れ込んでいたことが判明。

シビレるほどのカオス。

そして、血の気盛んな「ニコニコ市場」は占領軍?のアメリカンなポリスの詰める北町警察を襲い、銀行を襲う。しかし、昭和ポリスの詰める南町警察は管轄違いなのでマーケットで警ら中に茶をシバキつづける!

今度は目抜き通りで「爆弾騒ぎ」が発生。



バクトリの最中、ルパンが登場(!)

市中を走り回るルパンとジゲンと、コバンザメの如く追いかけまわすゼニガタ警部(!)

茶をシバいていた南町警察もおっとり刀で駆けつけ、銃撃戦ののちにルパン一味の身柄を確保!





ルパンである。

ジゲンも銃撃戦の末に検挙!



本署まで護送されるジゲン。



ポツンとジゲン。



身柄を確保後、スルドイ担当官の取り調べが始まる。

「ジゲンさんね~。名前がジゲン?」

「ジゲンが苗字です」




長年の悲願であった「ルパン一派の検挙」を成し遂げ、満面の笑みのゼニガタ警部。しかし、スルドイ担当官は見過ごさなかった――!

「コイツ?どっかで見た顔やな?」



――アホガン国連合国軍司令部爆破未遂事件の首謀者「カミカゼ」!!



「いんたぽーる?マーケット(闇市)にこないだ出来たキャバレー?」

ちばらぎ県警は「インターポール」をロクに知らなかったことから、カミカゼの跳梁跋扈を見過ごしていた!

タレコミによれば「ゼニガタ警部」は、闇市に海外製の武器を卸し、見返りに現金を受け取り、銀行襲撃事件では捜査情報をブラミー一家に流していたという「悪徳デカ」だったのだ!というよりも、「いんたーぽーる」の身分自体が怪しい!

急遽、総員が緊急招集され、「ゼニガタ警部」を二重、三重に取り囲み「ショクシツの時間」がはじまる。

「あーた、いんたーぽーるから来たっていうけんど、証明書あんの?」

「マーケットから袖下貰ってたって話もあんだけど、アンタ、そもそも本物?」


と、厳しい追及が進む。

――そのとき、酔ったふりをしてやり過ごそうとしていたゼニガタ警部が横の係官にもたれかかった瞬間、係官の制帽が落ち、よろめいた!

スルドイ係官の声が響く!!

「●×分!コームシッコウボーガイでタイホ!」

出た!

伝家の宝刀!!

「転びコーボー」(!!!)

混乱に乗じ、「ゼニガタ警部」こと「カミカゼ」が駐車中の車両に飛び込み逃走を図る!

「数の暴力(芸術)」発動。



取り囲んだ機動隊員の芸術活動によって、自動車のフロントガラスは粉砕され、

怒号一発、「喚声前へ!」







こうして「ゼニガタ警部」に正義の鉄槌――カリスマがいませんでした。「情報は間違いでした」では済まされない!いつでも「おみやげ」は必要だ!――が下され、零度市はまた一歩平和へと近づいたのだった。


――そして、この日、カリスマは零度市ではなく、隣県のトチギスタンで行われていたイベントで大暴れしていたのだった。

ちばらぎ県警とカリスマの激しい攻防戦はつづく。


(※ Bigout http://www.big-out.jp/ 主催 「ネオ零度シティ」にて。「第2回ネオ零度シティー」は2014年2月2日に開催決定!)
  
Posted by アホ支群本部 at 00:00Comments(0)雑記