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アホ支群本部
千葉県東葛郡市川町に大正年間に創業した「市川広小路 平和堂」。 創業以来、市川の地で国府台連隊をはじめ、軍部隊納めの商いを行うも市川空襲で焼夷弾の直撃を受け被災、廃業。 平成20年。半世紀余りの眠りから覚醒し、国防産業の「隙間のスキマ」を狙う「国防商会」として再始動。 部隊購入、隊員個人によるセミオーダー、PXメーカーに対する助言等、「かゆいところに手が届く」各種個人装備、被服、旧装備の復刻等を行っています。 詳細は「オーナーへメッセージ」よりご連絡下さい。
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Posted by ミリタリーブログ at

2012年11月18日

戦後警察けん銃について (資料編/千葉県警察史)

現在構想中の昭和時代の警察旧型けん銃入れ(ケース。ホルスター)製作についての情報収集について。

マルシンの「ポリスリボルバー」や「S&W 45口径 回転式」ことS&W M1917などが発売され、にわかに注目の集まっている旧警察(※記事では平成6年の現行制服への改正以前のものをさす)型の「けん銃入れ」(けん銃ケース、ホルスター)の制作について各方面より打診が来ており、「昭和期の警察けん銃」について当方で調べた部分について公開。


現在の制服が制定される以前の警察官用けん銃入れなどの装備品は以前は払い下げ品店などで比較的容易に出来たものも、払い下げ品店での在庫も枯渇。そもそも払い下げ品を扱っていた作業服店もチェーン店が各地を席巻し、廃業が相次ぐなどの理由から年々入手が難しくなった――もともと装備数の少なかった「ガバメント」等のけん銃入れの入手はほぼ不可能。

そして、M1917、M1911A1をはじめとする「ガバメント」、チーフス、M10などに多く見られた「蓋なしけん銃入れ」についても、公安委員会規則の一部が改正される昭和48年6月以前に作られた物であり、少なくとも製造から40年を経たことでいくら頑丈な革を使用して製作されたものとはいえ、警察官個人に貸与され、使用された物が払い下げられていたため、長年の酷使で革自体も劣化。状態の良い物を見つけることは至難。

自身のメモ代わりに簡単に概要を示すと、日本の警察けん銃の歴史は、戦後に始まったといえる。



※ 昭和26年当時の警視庁警察官。通称「21年制服」当時の規定で「たま入れ」の蓋は下向き、GHQから支給された「バックルブーツ」は黒く染めていたことがわかる。この時代からの伝統で現在も機動隊をはじめとした警察官の履く警備靴は「バックルブーツ」スタイルが多い。また警棒は「警視庁型」のこげ茶になる以前のニス塗であることがわかる。

というのも、終戦直後まで警察官はサーベルを佩刀していたことから、それまでけん銃の貸与は現在の銃器対策部隊に相当する部署などのごく一部への配備であり、現在のように「1人1丁」となるのは、昭和24年(1949年)7月15日付のGHQによる指示によって米国からのけん銃が貸与されたことから本格的な整備が開始。

もともと終戦までに旧警察が装備していたけん銃と、この米国貸与けん銃の割合は、昭和29年7月の現行警察法の施行当時で、

「全国の警察官が保有するけん銃は十二万四千二十八丁で、このうち八十七・三パーセントが(米国)貸与けん銃であったが、これらは昭和三十年六月一日付をもって米国から我が国に譲渡された」(千葉県警察史)

「けん銃は、警察官の職務執行上の必要な武器として、大正十二年(一九二三)勅令第四百五十号によってけん銃の携帯が許されて以降、各庁府県ごとに整備されていったが、その数は昭和五年(一九三〇)十二月現在、全国で千三百二十二丁、本県(※千葉県)では二十五丁がそれぞれ装備されていた。(中略)当時、大型又は小型の「コルト」「ブローニング」に限定されていたが、昭和七年九月一日(中略)警保局長通達が発せられて以降、この種の制限は撤廃されることとなった」(千葉県警察史)

つまり、戦前から日本警察で使用されていたなかでも多く装備されていたというブローニングM1910、コルト32オートなどに加えて、戦後、「警察官全員に支給するため」米国貸与けん銃が装備される。この以前の終戦直後の混乱期に元警視庁警察官の回顧録では、「当初、GHQより支給されたけん銃は南部14年式などの旧軍から接収したけん銃を装備するも、数が少なく、皆で持ち回りで装備した」(原田弘著「ある警察官の昭和世相史」)旨の記載があり、これらの旧軍けん銃をはじめとした接収品の装備以降に「警察官全員へのけん銃装備」の方針が決定。米国貸与は行われた。詳細な支給時期は不明であるが、

S&W M1917 (45口径 回転式)
COLT M1917 (45口径 回転式)
COLT M1911 (45口径 自動式)
 ※M1917装備後に支給されたとの証言もあり

等が支給。

この米国貸与が行われる直前の昭和24年の「警察行政監察報告」には当時の世相が伺える。

「当時のけん銃は「警察官五名に一丁の割合でその様式は百七十数種に及んでいる」と報告(中略)本県(※千葉県)における同年十二月末のけん銃保有状況は、国家地方警察七百四十三丁、自治体警察三百七十八丁で警察官三人に一丁の割合であった」(千葉県警察史)




※ 昭和27年(1952)5月の「血のメーデー事件」で皇居外苑で45口径回転式と思しきけん銃を構える警察官。このメーデーでは暴徒化したデモ隊に警官隊が発砲。デモ隊に死傷者が発生する。また写真の警察官は出動服が制定される以前のため、出動時も制服に鉄帽姿



※ 昭和31年当時の警視庁警察官。現在は装備されていない「たま入れ」が見える。また全国でバラバラであった警察官制服の「斉一化」を目的に制定された31年12月制定の通称「32年制服」以前から、警視庁では白色けん銃つりひもが使われていたことがわかる



※ 学生運動が隆盛し、「銃による革命」を標榜した極左暴力集団によるけん銃強奪、強奪未遂事件が多発した影響からか昭和48年以降、警察官のけん銃入れは蓋付となる。



※ 昭和44年(1969)徳島県警の射撃大会の模様。けん銃はグリップアダプターの付いた「S&W M1917」。また通称「43年制服」の改正以前の標準であった紺色の「けん銃つりひも」が使用されている。千葉県警察史によれば千葉県警の場合、昭和48年の若潮国体警衛警備まで紺色つりひもが使用され、県警によっては平成6年の現行制服への改正まで使われた。

そして、出典とした千葉県警察史は警察官の増員とけん銃整備について続ける。

「昭和三十四年度以降、警察官の増員に伴ってけん銃の整備が図られることとなり、当初、増員分のけん銃は輸入に頼っていたものの、昭和三十五年度に初めて国産けん銃ニューナンブM60型が採用されたことから、同四十三年度以降は一貫して同一銃種による整備が行われた」

ここで興味深いのは、ニューナンブM60型が昭和35年(1960年)に採用された後も、昭和43年(1968年)までの8年間がニューナンブと共にけん銃の輸入が行われていたことを記す。

現時点で判明している情報を総合すれば、

(接収品を再支給けん銃) 戦前~

ブローニングM1910、コルトポケット32オート、南部十四年式、九四式、二十六年式等

(米国貸与けん銃) 昭和24年~

(45口径) S&W M1917、COLT M1917、COLT M1911、各社M1911A1
(38口径) S&W M&P(※ビクトリーモデル) 4inc 、5inc、COLT Police Positive、コマンド、オフィシャルポリス等

(米国輸入けん銃) 昭和34年~43年



※ 警視庁HPより。けん銃強奪事件の手配写真より。スクエアバッドのチーフス3incに国産と思しきベークライト調の樹脂製銃把がつけられている

S&W M36 (1950年発売。ラウンドバッド、スクエアバッドともに輸入。現在も現役)
M10 (1956年。4incが主?現在も現役)
COLT  Detective Special、COBRA (1950年発売。私服捜査員用?現在も現役)

(国産けん銃)



※ 「ニューナンブ」には外見上、通称「前期型/後期型」が存在し、納入年次や再処理などで表面処理にも複数のパターンが存在する。

ニューナンブM60 (昭和35年(1960年)採用。製造終了。現役)


――と、調べれば調べるほど奥が深すぎ、泥沼化する昭和時代の警察けん銃事情の調査。

千葉県警察史の「百七十数種に及んでいる」という記述ひとつをとっても、もはや追跡は不可能と言わざるを得ない。そして、国内の法執行機関ということで、現在よりも秘密主義が色濃く、いまほど情報公開も進んでいなかった時代の日本。国民レベルでも銃器アレルギーも強く、さらにいえば警察自身が銃をタブー視したなどの影響か、情報は非常に限定的だ。さらに自衛隊物にせよ、警察物にせよ「戦後日本の機関」――とくに高度経済成長期の体系的な研究はなされておらず、全貌を知ることはことのほか難しいとの印象。

という訳で、今回は「資料編」。次回は収集した一次情報について分析予定→実物の比較→製造方法と手段について。複製製作実施の可否について判定します。


関係各位のご指導、ご鞭撻お待ちしております。


平和堂 代表  

Posted by アホ支群本部 at 05:30Comments(2)調査研究

2012年11月18日

市川広小路 平和堂

千葉界隈でささやかに活動を続けておりました平和堂でありますが、この度、各方面よりの要望を受けまして、情報のターミナルとなるブログを開設する運びとなりました。

自己紹介をかねましてご説明いたしますと、「市川広小路 平和堂」は大正年間、千葉県東葛郡市川町の市川警察署そばにて創業。佐倉と並ぶ「軍都」であった市川で、野戦重砲兵連隊をはじめ多くの部隊が駐屯していた国府台の坂下に位置していたことから、先々代は本業の日用品販売とともに軍納めの商いを行い、時局が逼迫するなか、たいそう繁盛していたと言います。



※ 戦前の市川町。千葉街道沿いに平和堂は創業。増強つづく国府台連隊と共に栄える

しかし、大東亜戦争中の市川空襲にて被災。そのまま終戦を迎え、終戦後解体された国府台連隊と共に平和堂もその歴史を閉じましたが、半世紀の眠りを経て、平成20年、四代目により再興されました。



※ 大東亜戦争末期の市川空襲にて被災。取引先(国府台連隊)と共に地図上から消える。

現在も多くの自衛隊部隊が駐屯、陸海空三自衛隊の集まる千葉の地で、主に自衛隊員に対する装備品の製造販売。いわゆるPX品の改良、セミオーダーの製作などと並行して、コレクター向けに現在は使用されていない自衛隊、警察等の旧型装備品の複製品製作などを行っています。

「無い物は作ればいい」

以上を座右の銘として、多くの方々のご協力で平和堂は運営されています。

しかし、「カタチだけ作ればいい」というものではなく、やるからには徹底しなければなりません。

そこで平和堂では、製造メーカーをはじめとして、旧警察の装備品製造を行っていた工房や、小道具の制作メーカー、助言と共に多くの注文を頂きました隊員さん、そしてコレクターの皆さんなど、ご縁を頂きました各位のご協力、ご支援を頂き活動を続けることが出来ました。

今後も各方面より一層のご指導、ご鞭撻を賜れますと幸いです。


市川広小路 平和堂
  

Posted by アホ支群本部 at 02:03Comments(0)紹介